源朝長墓所
(みなもとのともながぼしょ)

市指定史跡

     袋井市友永     


▲源朝長墓所は平治の乱に敗れて都落ちの途次、傷を負って自害した朝長の
首を家人大谷忠太が持ち帰り、当所に葬ったことが由来となっている。
(写真・五輪塔の収まる堂舎と朝長公の絵)

遠江友永の五輪塔

東名袋井ICから県道61号を5kmほど北上すると袋井市友永の町内である。町の西側を流れる敷地川を渡り、堤を下ると積雲院という古刹がある。この寺の門前の一画に堂舎が建ち、中に五輪塔が三基並んでいる。これは「朝長公の墓」または「朝長公石塔」と呼ばれているものである。堂舎内の三基の五輪塔は「遠江古蹟図絵」(江戸中期・享和三年/1803刊)によると向かって左から源義朝、源義平、源朝長と記されている。

堂舎の前には源朝長公墓所と表記された甲冑姿の騎乗した若武者の大きな絵が掲げられている。絵は大垣市青墓小学校で書かれたもののようで、当地三川小学校と交流があるらしい。大垣市青墓は古くは青墓宿と呼ばれる宿場で、ここにも源朝長の五輪塔があるのである。

源朝長は源義朝の次男である。長男は義平、三男は頼朝である。平治の乱(1159)で義朝は平清盛と戦って敗北、再起を期して三人の息子とわずかな近臣のみで都を落ち、東国へ向かった。途中、叡山の山法師らによる落武者狩りに遭遇、朝長は左腿を矢に射られて負傷、その後頼朝が雪の伊吹山中ではぐれた。それでも義朝、義平、朝長らはなんとか美濃青墓宿にたどり着いた。しかし、朝長は傷が悪化するのみで足手まといになってはとここで自害したと伝えられている。享年、わずか十六歳であった。その後、義朝は知多半島の野間で長田父子に裏切られて殺され(伝・義朝公最期の地)、長男義平は京都に潜伏していたところを捕まって処刑されてしまう。

朝長の遺体は青墓で埋葬されたが、後日平氏によって掘り返され、首は京都六条河原に父義朝とともに晒された。朝長の家人であった大谷忠太(おおやのちゅうた)は主人の首を自身の郷里大谷へ持ち帰り、積雲院の地中に葬って墓碑を建てたと伝えられている。大谷は現在の友永の隣町である。ちなみに友永の地名はもとは朝長であったという。この時、建てられた墓碑が現在の五輪塔であるのかは分からない。

その後、源頼朝が上洛の際にここへ立ち寄って朝長の墓碑を拝した。この時、頼朝は墓前に二本の松を植えたという。この松は三代目「頼朝松」として現在に伝えられている。

積雲院の北隣に朝長を祭神とする御沙汰神社がある。毎年八月十五日には市の無形文化財となっている「源朝長公御祭礼」が行われる。神社から積雲院の五輪塔前まで行列して念仏踊りを行うというもので廻り念仏と呼ばれている。


▲堂舎内に並ぶ三基の五輪塔。

▲三代目の頼朝松。

▲積雲院の山門。

▲御沙汰神社。左の蔵には祭礼に引き回される「朝長車」と呼ばれる屋台が保管されている。



----備考---- 
訪問年月日 2023年6月24日 
 主要参考資料 「遠江史蹟瑣談」
「遠江古蹟図絵」他

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