新居関所
(あらいせきしょ)

国指定特別史跡

      湖西市新居町新居     


▲新居関所は慶長五年(1600)に全国の街道が整備された際に設置された関所
のひとつである。交通量の多い東海道の関所として重要な役割を担っていた。
(写真・渡船場の護岸と面番所の建物)

入り鉄砲と出女

JR新居町駅前を東西に国道301号線が通っている。かつての国道1号線である。駅前から西へ650mほどのところに国指定特別史跡「新居関跡」がある。江戸時代に整備された53ヵ所の関所のひとつであり、上方と江戸を結ぶ東海道のなかでも新居関所は最も厳しい取り調べが行われたという。

慶長五年(1600)、徳川家康は全国の各街道を整備して宿場を置いた。街道の要所には江戸防衛のための関所が設けられ、「入り鉄砲と出女」と言われたように武器の搬入や女性の出入りには特に厳しい取り調べ(女改め)が実施された。新居関所は東海道の浜名湖西岸に設けられ、江戸へ向かう場合は関所を通り、船で舞阪宿へ渡る。反対に江戸から上方へ向かう場合は舞阪宿から船でここに着いて関所を通ることになる。

設置当初の新居関所は現在地から1.5kmほど南西の今切口(浜名湖と太平洋の開口部)近くにあった。元新居又は大元屋敷と呼ばれるところである。元禄十二年(1699)の暴風雨による災害で破壊されるまで約百年近く、大元屋敷にあった。元禄十四年(1701)、600mほど西の中屋敷に関所が再建された。現在の新居高校の付近である。この翌年、幕府は直接管理してきた関所の運営を三河吉田藩(吉田城/豊橋市)に移管した。

宝永四年(1707)十月、南海トラフを震源とする巨大地震が発生した。最大震度7とされるこの地震で倒壊、さらに津波にも流されたため、翌年には再び移転して現在地に再建された。

現在地に関所が再建されてから約百五十年後の嘉永七年(1854)、南海トラフ東海道沖を震源とする巨大地震が発生、津波にも見舞われ、関所の建物が倒壊した。再建工事は安政二年(1855)から同五年にかけて行われた。この時再建されたものが現在に残る書院・面番所の建物である。

時代は変わり、明治二年(1869)の新政府による関所廃止令によって全国の関所のほとんどは取り壊されてしまう。唯一、新居関所の面番所の建物が小学校や町役場に利用されたために後世に残されることになった。大正十年(1921)、国の史跡に指定され、昭和三十年(1955)には国の特別史跡に指定された。昭和四十六年(1971)、解体修理が実施され、明治期に変更された間取りも江戸期の姿に復元された。

整備された関所構内には史料館が併設されており、関所や宿場関連の資料が展示されている。史料館の前には渡船場の護岸の一部が復元されている。関所遺構である面番所の建物は内部が公開されており、役人の人形がそれぞれの持ち場に据えられて、当時の様子が再現されている。


▲現代の関所入口。

▲入館受付の反対側には発掘調査に基いて復元された渡船場の護岸。底には波除の杭が打ち込まれていた。

▲現存遺構である関所の中心的建物である面番所。

▲面番所の北側に付随する御書院と相之間(左)。

▲面番所中之間。番頭や給人が詰める。

▲中之間の隣、次之間。ここには下改や同心が詰めた。

▲あらため女。女性に対する改めを担当した。

▲面番所の建物。長さ十二間である。

▲面番所の向かいにある高札。手前左の石は籠を置くためのもの。右は石樋で護岸にあった排水のためのものである。

▲女改之長屋。改め女(二人)の家族居住用の長屋で二軒分である。

▲復元された女改之長屋の内部は展示スペースとなっている。

▲関所構内の復元完成図。まだ未整備の建物がある。

▲大正10年(1921)に建てられた史跡碑。

▲大御門。明け六つ(午前6時)に開き、暮れ六つ(午後6時)に閉まった。

▲最初に関所が設けられた大元屋敷跡。冠木門があって小公園となっている。

▲説明板にあった当時の絵図。



----備考---- 
訪問年月日 2023年8月26日 
 主要参考資料 現地パンフ他

 トップページへ遠江国史跡一覧へ