ほうこくたいきねんひ
(ほうこくたいきねんひ)

                 浜松市中区利町           


▲ 記念碑は浜松市中心部の五社公園内に建っている。建碑は明治41年である。

国恩を奉報度相心得
          報国隊と号す

 報国隊は戊辰戦役に際し、西遠地方の神官、有志をもって編成された、所謂草莽隊である。地元浜松藩も五百余の藩兵を征東軍に従軍させているが、これとは全く関係ない。
 西遠地方は国学の大家加茂真淵の生国のこともあって神官層の間に国学研究が盛んで、歌会と称して時事を談じ、または朝廷の衰徴を嘆き、同学の間に連帯の機運が高まっていたのである。
 明治二十六年に著された「報国隊顛末」によれば、
「此時ニ方リ四方勤皇志士義挙盛ニ起コリ、益々国事ノ切迫ナルヲ知ルニ及ビ、私カニ武技ヲ講シ武器ヲ購ヒ時ニ臨ンテ力ヲ王事ニ尽サン事ヲ期シタリ」
 とある。
 慶応四年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いが報ぜられると浜松の同志が池田庄三郎の別荘比礼廼舎に集い、官軍に協力することを誓った。直ちに鈴木覚之助、桑原真清、大久保初太郎らが上京のために国許を発った。何れも神官である。彼らは桑名城において東海道鎮撫の先鋒隊に会し、東征軍への参加を懇願した。
 しかし、その熱意は聞き入れられたが従軍は認められず、一隊を作り沿道の安全を確保し、大総督宮東下に備えよ、というものであった。
 二月十七日、浜松諏訪社の杉浦大学邸に森縫之助、池田庄三郎、中村源左衛門、山本大隈、加茂備後らが集い、一隊を編成するために檄文を草した。三日後には二百人以上が会し、「報国隊」編成となったのである。藩としても森、杉浦、桑原らを浜松城に召して、これを認めている。
 二十二日、先の先鋒部隊を舞坂に出迎え、さらに二十八日には大総督有栖川熾仁親王の東征軍本隊を出向かえ、天竜川両岸の警衛についた。
 あくまで従軍の初志を実現するために懇願を続け、三月二十三日にいたり、ついに出兵の命が下ったのである。こうして報国隊は富士川の警衛を初めとして東征軍に従い、四月十四日には江戸入りとなった。その後、江戸城の警備、上野彰義隊の追討などに参加した。
 十一月、有栖川宮帰京にともない報国隊もこれに供奉して帰国の命が下った。
 五日、江戸発。十五日、浜松着。隊員は宮の謁見を得、藩主も酒肴をもって慰労した。
「十六日宮ノ駕ヲ舞坂駅ニ送リ奉リ隊員一同謁ヲ賜ヒ、各々感泣シテ郷里ニ帰ル」(報国隊顛末より)
 勤皇の初志を貫徹した報国隊の九ヶ月がこれで終ったのであった。
----備考----
画像の撮影時期*2004/06