まつだじょう
(まつだじょう)

                   浜名郡新居町中之郷           


▲ 松田城址の南側縁部。右側の小高くなっている丘が城域と
されている。正面の森は禅刹・清源院の境内である。

今川軍団、
        遠江、三河を席捲

 この城は中之郷城とも呼ばれ、永正年間(1504-1521)に織田方の松田修理が城主として居城していた。このため松田城とも呼ばれている。
 永正三年(1506)、今川方の部将中山民部入道生心によって攻め落とされたといわれ、永正十三年(1516)付けの「本興寺文書」に中山民部の名が見られることから、この頃にはこの城を居城としていたと思われている。
 城史としてはこの程度しか分かっておらず、残念ながら詳細は不明とせざるを得ない。
 ただいえることは、この永正年間という時期は今川氏親の勢威が遠江と三河にまで及んだときである。しかも遠江の守護職を約百年ぶりに斯波氏から今川に奪還しており、その勢いは周辺地域を圧倒していたといえる。無論、今川氏の版図拡大の最大の功績者はいうまでもなく、後の北条早雲であった。
 この早雲率いる今川軍団が永正三年から五年にかけて遠江、および西三河にまで進攻して松平長親勢と対戦している。中山民部入道が松田城を攻め落したという時期と今川軍団の進攻の時期とが一致している。ということは早雲の助勢を得た中山民部入道が斯波氏の被官である織田方の松田修理を攻めたということがいえるのではないだろうか。
 現在、城址周辺は平坦な地形となっているが、戦国当時は湖水が城址の三方を洗っており、湖上交通の要所であったと云われている。

▲ 北側から見た城址。道の突き当たりの一段高くなっている丘が城址とされている。現在では自動車学校の教習場となっている。周囲の畑地は当時湖面であったという。

▲ 清源院の山門脇には松田修理所縁の「駒止めの桜の碑」が建てられている。

▲ 「城ノ前遺跡」と書かれた案内板。発掘調査の際に白磁器、茶碗、木簡などが見つかったと記されている。平成17年(2005)に立て替えられたものである。

▲ 平成15年(2003)年当時に立てられていた案内板。文字が消えかかっていた。内容は左側の写真とほぼ同じである。
----備考----
画像の撮影時期*2003/07・2009/02/09
画像追加、本文再編集*2009/02/09