妙立寺
(みょうりつじ)

                   湖西市吉美            


▲ 延兼山妙立寺。日蓮宗の寺である。。

吉美郷士の選択

 至徳三年(1386)、日什上人によって草創された日蓮宗の名刹である。開基旦那は土地の郷士佐原常慶、内藤金平であったという。

 この両氏は代々この地に住み続け、その子孫は現代にいたるまで連綿と続いている。さりながら、その間何事もなかったわけではない。戦国時代の昔、一族の浮沈にかかわる岐路に立たされたことがあった。今川につくか、徳川につくか、この選択の如何によってはその後の両氏は絶えていたかもしれないのである。

 こうした選択の岐路に立たされ、一族滅亡の悲劇を演じた国人、土豪も数多くいたことを忘れてはならない。

 さてその戦国時代、遠江と三河は今川氏の版図に含まれていた。ところが永禄三年(1560)、桶狭間で今川義元が敗死してからはその勢力が急速に衰えはじめた。三河では徳川家康が独立して永禄十年には統一を成し遂げ、遠江への進出を窺うほどにまでなっていた。

 今川義元の後を継いだ氏真は徳川勢の来攻に備えて妙立寺の境内を接収し、兵を留めて城砦としたのである。これが境目城と呼ばれるもので、現在の寺域はその際に移されたものである。

 永禄十一年十二月、家康の別働部隊である酒井忠次勢が湖西に進出して境目城を一日で落とし、ここ妙立寺に本陣を置いた。

 事前に徳川への旗色を鮮明にしていた佐原、内藤、松野の郷士らも馳せ参じ、次なる目標である宇津山城攻略の道案内を申し出た。

 記録には松野喜楽が、
「直道之案内仕、被遂御勝利候」(ただちに道案内つかまつり、御勝利をとげられそうろう)
 とある。

 戦後、今川氏もそうであったが、徳川氏もこの寺を祈願寺として崇め、七十六石余の寺領を寄進している。


妙立寺の山門。市指定文化財(建造物)となっている

▲「旗建松之碑」。遠州討入り当時、徳川家康が妙立寺の松に白旗をたてた。この松が明治25年の暴風にて折れたため、その後にこの石碑が建てられた。
----備考---- 
訪問年月日 2003年11月1日 
再訪年月日 2021年7月10日
 主要参考資料 「宇津山城」他

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