おかじょう
(おかじょう)

                   湖西市新所            


▲ 城址に遺構はなく、ただ字名が岡というにとどまっている。

悲劇の城

 永禄九年(1566)正月、浜名湖西岸に突き出た宇津山城において兄弟相克による城主交代があった。
 宇津山城は今川氏によって三遠(三河・遠江)国境地帯、とくに湖西地域の支配拠点として築かれた城で、朝比奈氏がその城主として胡座していた。
 その朝比奈氏二代目城主孫太郎泰充が、正月二日夜の謡初めの座において、こともあろうに弟の孫六真次の手によって口論の末に殺害されてしまったのである。
 ここ岡城は孫六真次の居館跡であったとされている。
 いつの時代でもそうであるが、勢力と勢力の間に置かれた小勢力の内部では、そのどちらにつくかの葛藤が渦巻き、争論が絶えぬのが現実である。一族の浮沈と当事者同士の利害が絡み合い、歴史の表には出ることのない悲劇が数多く生まれてゆく。
 この兄弟も例外ではなかった。あくまで今川氏への忠誠を貫こうとする兄と、新興の徳川氏へ鞍替えしようとする弟との確執が前述のような悲劇となったのである。
 さて、宇津山城主としておさまった真次は事の次第を偽って「兄病没」と駿府(今川家)へ報告した。今川家は城主としての跡目を真次に認めた。
 真次は城主交代の証として領内の土豪らに種々の判物をくだし、その地位の確立に力を注いでいる。同年十二月には吉美(現・湖西市)の熱田神社へ富士浅間の社殿修造料として社領の寄進もしているのである。
 しかし真次の城主としての座もそこまでであった。事件の顛末が今川家の知るところとなってしまったのである。
 年明け早々、二年前に徳川勢による攻撃に屈服して吉田城を明け渡したという苦い経験をしている今川家の重鎮小原肥前守鎮実が名誉挽回とばかりに宇津山城へと押し寄せてきたのである。
 悲劇はさらに悲劇を生む。
 あてにしていた徳川方の助けもなく、真次はあえなく討死。ここ岡城も小原勢によって攻められた。ここでは真次の家来らが必死の防戦をしたが敵わず、せめて真次の妻子を落とさんと三河の国境を目指して走った。
 しかし追手の追及も素早い。ついに国境近くの新所原の森で妻子共々自害して果てたのであった。
 徳川方がこれにたいして何らかの行動をおこしたという記録はないようだ。
 現在、城址は土地整備によって遺構は残っておらず、ただ城山という地名だけが往時の名残りをとどめているのみである。
----備考----
画像の撮影時期*2003/11