ともやすこうしゅっせいのい
(ともやすこうしゅっせいのい)

                   浜松市北区引佐町井伊谷         


▲ 龍潭寺の東、神宮寺川との間に史跡として大切に保存されている。

伝説の誕生秘話

 井伊氏の祖、初代共保がここ井伊谷にその地歩を築いたのは平安時代中期のことである。生没年は詳らかではないが一説では寛弘七年(1010)生まれで寛治七年(1093)の卒といわれている。
 都では藤原道長が摂政となって権勢を誇り、藤原氏の全盛期であった時期である。一方、地方においては武士が台頭しつつあった。前九年後三年の役を通して源義家が武家の頭領として仰がれるに至り、やがて来る武士の世の前兆の時期でもあった。
 それにしてもこの時代の地方の様子というものは糢糊として霞がかかったようでよく分からない。伝説と伝承の時代といえようか。共保の出生に関しても伝承の域を出ないといえよう。
 寛弘七年正月元日、八幡宮の井戸の脇に捨てられていた赤子を八幡山地蔵院の和尚が拾って育てた。その子が七歳のときに浜名湖畔の志津城主藤原備中守共資(ともすけ)の養子となり、成長して共資の娘を娶り共保と名乗ったのである。その後、共保は井伊谷に戻って井伊氏を称したという。
 また井戸脇の赤子を拾い育てたのは地蔵院の和尚ではなく、八幡宮の神官であったともいわれている。
 旧引佐町教委の説明では、寛弘年間の元旦、藤原共資が領内平安祈願のために渭伊神社へ参拝の折、神域の井戸脇に赤子を見つけ、
「俊秀麗顔、常人にあらず、神授の神童なり」
 と感じ入り我が子としたとある。その後は先述と同じである。
 他説として天日槍命(あまのひほこのみこと)三十二代三宅好用が延喜年間(901〜923)に荘司として当地に赴任、この井戸の側に居を構えた。その三代目井端谷篤茂(いはたやあつしげ)の娘が藤原共資に嫁して共保を産んだともいわれている。
 いずれにしても共保出生にはこの井戸が必ず関わっている。井伊氏の紋もご存知のとおり井桁である。
井戸跡
▲ 井戸の脇には「祖霊之地」の碑が建っている。
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画像の撮影時期*2004/08