よねづだいば
(よねづだいば)

                   浜松市南区新橋町            


史跡として残されている台場跡。

海防に揺れた
       浜松藩

 天保十一年(1840)眠れる獅子といわれた大国清が簡単に屈してしまったアヘン戦争。この結果は泰平に慣れきった日本の諸藩に、とくに海岸部を抱える藩にとっては対岸の火事として無関心を決め込むわけにはいかなかった。藩領の防衛はあくまで藩の責務なのである。
 時の浜松城の藩主、水野越前守忠邦は幕府老中として天保の改革を実施したことで知られるが藩内での評判は、御用金の召し上げや借金の踏み倒しなどであまりよくない。それはさておき、忠邦は異国艦船の来襲に備えて大砲の鋳造と海岸警備案の見直しを実施、自国警衛組書というマニュアルを作らせている。
 それは、銃砲重視の長沼流兵学者である小野寺慵斎を軍事顧問とし、国家老水野平馬を軍事取調兼兵学修業総司、おなじく国家老の拝郷縫殿を次将とするもので、先手備組、二の手備組、留守居組の三隊で海岸警備にあたるというものであった。兵力は本隊三百七十人、大砲隊百八十七人(大砲4、砲筒3、肋銃30)、輜重隊百三十七人とされた。
 嘉永六年(1853)、ペリー艦隊の浦賀来航によって異国艦船の侵入が現実のものとなり、日本国中が海防熱に沸いた。
 こうしたなか、水野忠邦失脚後の井上浜松藩においても藩兵以外に農兵隊千百七十六人を組織して海防にあたることになった。
 やがて、台場築造の幕命が藩に伝えられた。台場とは沿岸砲台のことである。
 命ずる方は簡単であるが、命ぜられた方は大変である。しかし幕命には抗えず、苦しい藩の財政をやり繰りして対応しなければならなかった。したがって実際に築造に着手できたのは三年後の安政三年(1856)二月であった。完成は同年五月、高さ二十数メートルの円丘砲台三基であった。台上には五百貫(1.75d)以上の大砲が各一門据え付けられた。
 実際、この砲台で発射された石製砲弾は波打ち際にまでも達することなく、ただ砂埃をあげただけであったと云われている。訓練では発射した砲弾を砂中から拾い上げ、また発射した。これが、藩の実力であるとともに徳川幕府の支配してきた日本の現実であったのである。
 その後、寺社奉行老中という幕閣を務めることになる藩主井上河内守正直の心中に、
「幕府頼むに足らず」
 の感情が高まっていたのではないだろうか。慶応四年(1868)、正直は勤皇を誓い、藩兵五百三十一名を新政府軍に参加させた。
 現在、史跡として残されているものは三基のうちの一基、中央の台場跡である。
台場跡
松の根に覆われた台上への小道。
----備考----
画像の撮影時期*2003/09