たきさかいこじょう
(たきさかいこじょう)

                   牧之原市片浜           


▲ 城址は北郭と南郭に分かれている。「城の原」と呼ばれているのは北郭のこ
とである。現在は雑木に覆われ、人が訪れるのもまれであろうと思われる。
   堀切で区切られた南郭は茶畑と化し、北郭とは対照的にのどかな風景である。

勝間田氏、
     境目の城

 元亀二年(1571)三月、武田信玄の重臣馬場美濃守信春は春の日差しを受けてにじみ出た汗を拭いた。土地の者が「城の原」と呼ぶ角錐形をした山頂である。海風に乗って伝わってくる潮騒が心地よい。
 ここは勝田庄と相良庄の境で滝堺という処である。応仁・文明の頃(1470前後)、勝田庄の国人勝間田氏(勝間田城)が自領の境目を固めるために築いた城跡であると伝わっている。その勝間田氏、今川義忠に滅ぼされてから百年近くが経っている。勝間田氏の一党は散り散りとなり、その後歴史の表舞台に登場することはなかった。
 以来、この古城跡は雑木に覆われ、人の立ち入る事を拒み続けてきたようである。
「ちと、狭いのう」
 馬場美濃守は数人の部下とともに小枝と蜘蛛の巣を払い除けながらつぶやいた。
 軍団の行動に補給線の確保は不可欠である。武田軍は遠江進出にあたり、陸路による補給とともに海路による補給も確保しようとしていた。
 その海上輸送路を監視するためと、また同時に高天神城攻略のための後方基地としての城砦を構えようとこの古城跡にやってきたのであった。しかし、ここにはせいぜい数十人程度の兵しか駐留させることができない。少なくとも三百騎ほどは置きたいところである。
 馬場美濃守はこの古城跡を利用するのを断念して山を降りた。
 高天神記に、
「塁地狭きとてそれより北山に城を築き給う」
 とある。
 その城が武田方の築いたいわゆる滝堺城である。

▲ 北郭「城の原」から望む駿河湾。

----備考----
画像の撮影時期*2006/10