蛭ヶ小島
(ひるがこじま)

              静岡県伊豆の国四日町        


▲ 蛭ヶ小島は源頼朝公配流の地としてその名を知られ、現在は蛭ヶ島
公園として観光名所になっている。公園内には石碑やモニュメントが
建てられ、「蛭ヶ島の夫婦(ふたり)」と題する頼朝と政子の像も建っている。

源頼朝、配流の地

 平治の乱(1159)に敗れた源義朝は息子らと一族近臣十騎ほどで東国をさして京を脱出した。

 一行は雪の中を美濃に向かったが、この途中で頼朝だけが皆とはぐれてしまった。頼朝この時十三歳であった。 

 頼朝が平家方に捕らわれたのは年が明けた永暦元年(1160)二月であった。すでに父義朝(伝・源義朝公最期の地)、兄の義平、朝長もこの世になく、当然のこととして頼朝も処刑されるはずであった。それがどういうわけか、平清盛の継母池禅尼の嘆願によって助命され、伊豆へ配流となったのである。これは、池禅尼の早死にしたわが子家盛に頼朝が似ていたため(平治物語)だと言われている。

 その頼朝の配所となったのが蛭ヶ小島、または蛭ヶ島と呼ばれる所である。現在、遺跡として石碑が建てられている所が蛭ヶ島公園として整備されている。しかし、ここに配所の建物があったという確証はなく、この付近であろうという程度と思われる。島というのも低湿地帯の中の微高地がまるで水面に浮かぶ島のような光景であったのであろう。

 ともかく頼朝はこの配所で二十年近くを過ごすことになる。監視役となったのはここから1.5kmほど西に館(北条氏館)を構える北条時政であった。

 北条氏は桓武平氏の流れである。血脈を遡れば、権門勢家を極める平清盛の伊勢平氏にも繋がっている。その縁によってであろうか、時政は伊豆国衙の役人(官人)を務めていたと言われ、生粋の平家武者であった。

 ところが治承元年(1177)頃、時政が大番役で京に上って留守の間に娘政子が、こともあろうに流人の頼朝と恋仲になってしまったのである。一般的には、これを知った時政は事が表沙汰になることを恐れて伊豆目代の山木判官兼隆に嫁がせようとしたと言われている。しかし祝言の日に政子は山木館を逃げ出してしまい、時政は仕方なく頼朝と夫婦になることを認めたというのだ。

 だが、後年の鎌倉幕府における時政の政略家としての活躍ぶりから察するに政子を頼朝のもとに通わせるように仕向けたのは他ならぬ時政自身ではなかったかと思われる。役人として常に京の情勢を知り得る立場にあった時政には「驕れる平氏、久しからず」と先を読んでいたのかも知れない。

 結果的には、時政は頼朝を婿として自邸に迎え入れることになり、やがて平家打倒の立役者のひとりとして活躍することになるのである。

 結局、頼朝を蛭ヶ小島に流したことが平家の命取りになってしまったといえる。蛭ヶ小島はこうした歴史の面白さを教えてくれる場所でもある。



 蛭ヶ島公園に建つ「蛭ヶ小島」の遺跡碑

▲梛(なぎ)の葉の縁結びの碑。
 ▲ 蛭ヶ島公園。駐車場、自販機、喫茶店などがあり、石碑やモニュメントが建っている。
▲ 北条氏館のある守山から眺めた蛭ヶ小島(矢印)周辺の風景。蛭ヶ小島はここから距離にして約1.5kmほどである。

▲ 韮山町教委による説明板。
----備考----
訪問年月日 2012年1月3日
主要参考資料 「伊豆武将物語」他

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