北条氏館
(ほうじょうしやかた)

              静岡県伊豆の国市寺家        


▲ 北条氏館跡は守山西麓の発掘調査域を国指定史跡としている。最近の発掘調査
では鎌倉幕府滅亡後の館跡に建てられた円成寺の堂舎と庭園の池の跡が検出された
という。現在では埋め戻されているが、いずれは史跡公園として整備されることだろう。

北条時政、頼朝に賭ける

 永暦元年(1160)三月、池禅尼の嘆願によって死一等を減ぜられた源頼朝が伊豆(蛭ヶ小島)へ配流となった。この頼朝監視の任に当たったのが伊豆国衙(三島)の役人を務めていた北条時政である。
 北条氏は坂東平氏の一流で、その血脈を遡れば権門を極める平清盛の伊勢平氏とも繋がっている。その北条氏が狩野川沿いの北条の地に住み着いたのは時政の祖父時方の時で、北条氏を名乗ったのは父家時からであるからそれほど古くはない。時家は従五位下伊豆介であったことから国衙の役人であったと思われ、その地位は父子二代に渡っていたことになる。無論、在地武士としての力も蓄えつつあった。
 頼朝の監視者となった時政がいつ頃から頼朝を主とするようになったのであろうか。やはり、娘政子が頼朝と結ばれてしまったことが最大の要因であったと思われる。いやいや、時政の後の政略家としての働きぶりから察すると、蛭ヶ小島の配所にやってきた十三歳の頼朝を見た時から時政の賭けが始まっていたのかもしれない。
 治承四年(1180)四月、新宮十郎行家が以仁王の平家追討の令旨を携えて、ここ北条館にやってきた。この頃すでに頼朝は蛭ヶ小島の配所を出て、北条館で生活していたのである。
 頼朝が挙兵に踏み切ったのは八月であった。旗揚げの第一戦は伊豆目代山木判官兼隆の討伐と決まった。時政は周辺の武士(狩野氏、天野氏など)を結集、八十五騎余で山木館を夜襲した。山木館は北条館の東2.5kmほどの近距離である。この夜は三島神社の祭典で山木方は無勢であったというが、その必死の防戦に時政らは手こずったという。
 結局、頼朝の警護で北条館に残っていた加藤景廉、堀親家らが時政の加勢に駆け付けて山木兼隆を討取り、初戦はかろうじて勝利で飾ることができた。
 その後、石橋山の合戦(石橋山古戦場)では惨敗を喫したが、頼朝は安房に移って勢力を挽回、十月には鎌倉に御所を構えて拠点とした。時政も甲斐源氏武田氏や安田氏を味方に加えるなどして巻き返しに奔走した。富士川の戦いには甲斐源氏二万騎を伴って参陣している。
 平家滅亡後、時政は京や鎌倉にあって頼朝を補佐、武家政権創設の政務に明け暮れた。文治五年(1189)には奥州征伐の成就を祈願するため、故郷の地に願成就院を建立している。
 建久三年(1192)、頼朝が征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府が誕生した。幕府誕生後も時政の筆頭重臣の地位は揺るがず、その系譜は執権として元弘三年(1333)の鎌倉幕府滅亡まで百三十年十六代続いた。
 幕府滅亡後、北条高時の母覚海円成尼が北条一門の婦女子を引き連れて故郷の地に戻った。そしてここ館跡に寺を建立して北条一門の菩提を弔った。館跡と共に発掘調査された円成寺跡がそれである。

▲ 伝堀越御所跡の前に建つ「尼将軍北條政子産湯之井戸」の碑。室町期の堀越御所は北条氏館跡に建てられたというから、館跡地は願成就院を含む広大なものであったようだ。
 ▲ 北条氏館跡(円成寺跡)の様子。発掘調査の後はこのように埋め戻される。背後の山は守山城跡である。
▲ 守山城跡のある守山西公園駐車場には北条氏館跡のある守山とその周辺部の空撮写真が掲げられている。

▲ 北条政子産湯の井戸。堀越御所跡の南70mほどの所にある。

▲ 願成就院は北条時政が奥州征伐の成就を祈願して建てられた。北条氏館跡は守山の西にあるが願成就院は守山の東にある。

▲ 願成就院境内にある北条時政公の墓。

▲ 「国指定史跡願成就院跡」の碑。

▲ 北条氏館跡の西側を流れる狩野川(道路の向こう側)。

▲ 山木館のあったとされる付近は宅地となっている。フェンスに掲げられた白い案内板には「この先の高台一帯が平兼隆館の跡です」とある。北条氏館の東約2.5kmの所である。

▲ 香山寺境内に建てられた山木判官兼隆公の供養塔。山木館跡から東へ徒歩約10分。
----備考----
訪問年月日 2012年1月3日
主要参考資料 「伊豆武将物語」他

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