加納城
(かのうじょう)

              岐阜県岐阜市加納丸之内        


▲ 加納城は関ヶ原合戦直後、天下普請によって築城された徳川系城郭の先駆を
なすものである。この写真は本丸東側に設けられた外枡形の石垣である。

岐阜の新たなる府城

 現在、国指定の史跡となっている加納城址は慶長六年(1601)に徳川家康によって築かれた城跡であるが、それ以前にこの地には美濃国守護代斎藤氏の城が築かれていた。加納城を語る場合、斎藤氏時代の城を前期もしくは中世加納城、または当時の地名から沓井城と呼び、家康によるものを後期もしくは近世加納城として区別されている。
 中世加納城は時代区分では室町時代の前期から中期にかけてのことになる。
 この当時、美濃国守護土岐氏は革手城を府城としていた。そして実力で守護代の座を獲得した斎藤利永が文安二年(1445)に革手城の西北約500mのこの地に城を築いた。これが中世加納城である。守護館である革手城の至近に居城を築くことで守護土岐氏の近臣であることを喧伝するとともにその防衛を担うものであったのだろう。裏返せば、守護土岐氏を抑え込むためのものであったともいえる。城の形態はこの当時の平地に築かれた多くの城がそうであったように方形に堀と土塁で囲んだ居館城であったと思われる。
 その後、斎藤氏が居城として代を重ねたが、斎藤道三が稲葉山城(岐阜城)に居城を定め、天文十一年(1542)に守護土岐頼芸を美濃から追放するに至り、この城も廃城同然のものとなったようだ。
 時はは移り、斎藤道三から織田信長へ、そして豊臣秀吉の時代へと変わってゆく。この間、美濃の中心となったのは岐阜城であった。
 慶長六年(1601)、関ヶ原合戦の翌年であるが、天下分け目の戦いに勝利した徳川家康は戦国の世の象徴的存在となっていた岐阜城を廃し、斎藤氏時代のこの城跡に新たな城を築いた。これが近世加納城と呼ばれるものである。
 家康みずからが縄張したと伝えられ、近隣の諸大名を動員した天下普請で工事が進められた。築城には岐阜城の建材が多く用いられたといわれる。二の丸に建てられた御三階櫓(享保十三年/1728焼失)は岐阜城の天守を移築したものといわれている。
 慶長七年(1602)、家康は娘婿でもある奥平信昌に十万石を与えて加納城主とした。以後、加納城は加納藩の藩府として機能してゆく。

▲ 本丸跡とそれを取り巻く土塁。
 奥平氏は信昌の後、忠政、忠隆と続いたが、両人とも早逝したため、寛永九年(1632)には無嗣断絶となり、信昌の外孫大久保忠職が五万石で加納城主となった。
 寛永十六年(1639)、大久保忠職が転封となり、松平光重(三河戸田氏)が七万石で加納藩主となった。この松平氏は光永、光熙と三代続いて正徳元年(1711)に転封となり、安藤信友が入封した。安藤氏も信尹、信成と三代続き、宝暦六年(1756)転封となって永井直陳が三万二千石で封じられた。
 この後、永井氏が六代続いて明治を迎えた。加納城は明治五年(1872)、廃城令により破却された。

 ▲ 本丸南側の公園入口。搦手の門跡でもある。

▲ 本丸西側の土塁。

▲ 本丸北側の公園入口。

▲ 本丸北面天守台の石垣。天守が建てられることはなかった。

▲ 本丸外枡形南面の石垣。外枡形は徳川系城郭初期の特徴といわれる。

▲ 本丸南側の石垣と堀跡。加納城の石垣はチャートと呼ばれる固い石材が用いられた野面積みで築かれている。

▲ 本丸南側の土塁。

▲ 本丸跡には国史跡であることを示す説明板が立てられている。

▲ 本丸北側の公園入口に掲げられている縄張図と復元図。
----備考----
訪問年月日 2011年8月12日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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