革手城
(かわてじょう)

              岐阜県岐阜市正法寺町        


▲ 革手城(川手城)はかつて美濃国の守護所であったことから革手府とも
呼ばれていた。城は方形(一辺約200m)の居館城であったようだ。現在、
城址碑の建てられている場所は推定城域の北端にあたると言われている。

美濃国の府城

 美濃源氏光衡にはじまる土岐氏は光行、光定と続き、土岐中興の祖とされる頼貞の代で美濃全土を治める守護の地位を確立した。頼貞は足利尊氏と共に活躍した武将で、「土岐絶えば幕府(足利)絶ゆべし」とまで言わしめたことで知られ、足利幕府下初代の美濃国守護である。

 頼貞は一日市場館(瑞浪市)を居所としたが、その後を継いだ頼遠は辺地であることを理由に長森城(岐阜市切通)を築いて移った。頼遠も尊氏に従って軍功を重ねたが、その驕慢な性格がたたり、光厳上皇に対する不敬の咎により処断(斬首)された。

 三代守護となった頼康は信濃、伊予の平定に軍功があり、美濃・尾張・伊勢三ヵ国の守護を拝命して土岐氏全盛の時代を築いた。

 この頼康の時に革手城が築かれ、長森城から移った。文和二年(1353)六月とされている。別名革手府と呼ばれ、三ヵ国支配の府城として築かれたことが分かる。

 四代康行は三代将軍義満による討伐を受けて没落、叔父の頼忠が美濃国守護となった。この騒動は義満があまりに強大となった土岐氏の力を削ごうとしたものであった。

 以後、土岐氏は美濃一国の守護としてここ革手城で代を重ね、やがて戦国の時代を迎えることとなる。

 七代持益の頃、文安元年(1444)に富島氏、長江氏、斎藤氏が守護代の座をめぐって内乱状態となった。この争いで斎藤利永が守護代となり、革手城の西に加納城を築いて美濃の実力者となった。この後、守護土岐氏の立場は名目的なものとなってゆく。

 応仁の乱(1467)には利永によって擁立された八代成頼が西軍として京に在陣、戦後(文明九年/1477)は足利義視・義材父子を伴って帰国している。義視父子は十一年間革手城に滞在したと言われ、都を追われた公家たちも革手城付近に寄宿したという。革手城が都風となって繁栄したのもこのためであった。

 明応四年(1495)、守護成頼の後継をめぐり、嫡男政房を推す斎藤妙純と末子元頼を推す小守護代石丸利光が対立して合戦となった。この合戦は船田合戦と呼ばれ、革手城周辺が戦場となって三日三晩燃え続けたといわれる。革手府の繁栄も灰になってしまったのである。

 戦後、政房が九代目となったが永正十四年(1517)から後継をめぐって再び国内は乱れた。

 この頃、守護所は福光に移ったが嫡男政頼が居城とするなどして革手城は維持されたものと思われる。

 大永七年(1527)、次男頼芸の信頼を得た長井規秀(斎藤道三)が革手城を襲い、政頼は越前に追われた。そして頼芸が革手城に入って守護となった。

 天文十一年(1542)、下剋上を地で行く稲葉山城(岐阜城)主斎藤道三は頼芸を美濃から追放して実質的な国主となった。そして約二百年間美濃の府城として続いた革手城は廃された。
 ▲ 済美高校の校舎の間を東西に抜ける道の南側に城址碑の建つ公園がある。
▲ 校舎間の通りの中程に設けられた城址碑の建つ公園。

▲ 東側から見た城址碑の建つ公園前の通り。
----備考----
訪問年月日 2011年8月12日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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