国府城
(こうじょう)

            三重県志摩市阿児町国府       


▲国府城は戦国期に志摩十三地頭に数えられた三浦新介
の城跡である。現在は三浦稲荷大明神が祀られている。
(写真・県道514号と城山。)

一代の興亡、夢の如し

 国府城主であった三浦新介に関しては志摩十三地頭のひとりに数えられていた小土豪であったということくらいしか分からない。ただ、彼が当地にやって来た経緯については伝説的な話がいくつか伝えられているようだ。

 源頼朝の家来三浦新介が頼朝の怒りにふれ、うつろ船に乗せられて沖に流されたという話。鎌倉時代に相模三浦氏が滅びた際に一族のひとりが船で逃れたという話。戦国時代、北条早雲に攻められて滅亡した三浦氏の一子がうつろ船に乗せられて流されたという話。などである。いずれも共通しているのは三浦半島の豪族三浦氏に関係する人物が船で海に流されて国府の海岸に着いたということである。そして三浦新介と名乗って国府城主となったことである。漂着した三浦氏が当地で何代も続いたということは聞かないので、三浦新介一代の興亡が当地で繰り広げられたものと思われる。とすると鎌倉時代に当地へ漂着したとする伝承には無理があろうか。

 現地説明板には三浦新介の父は鎌倉時代伊豆相模の国司従四位下義同とあるが、三浦義同は鎌倉時代の人ではなく戦国期の武将で三浦道寸の名で知られている。三浦道寸義同は新興の後北条氏との抗争に敗れ、永正十三年(1516)三浦氏最後の当主として相模新井城に籠城、激闘の末に自刃した。その末子が故あって海に流されて国府海岸に漂着したというのであれば年代的には無理がなくなる。むろん、これも伝承の域を出ないことのようである。こういうことも考えられる。三浦氏とは全く関係がないのだが、海賊武将として近隣を従えて行く過程で威厳をもたせるために三浦水軍の末裔を名乗ったものかも知れない。

 いずれにしても三浦新介は周辺七ヵ村を従えて志摩十三地頭のひとりに数えられた。そして伊勢国司北畠氏に臣従して国府城主を命ぜられたという。享禄四年(1531)には波切城の九鬼隆次と協力して近郷の的矢美作守を討ち取ったとも言われ、武将としての健在ぶりを示している。

 三浦新介の家老であったと言われる国府の井村氏は宝永七年(1710)に古城跡の様子と知行が二千石であったことを鳥羽藩に報告しているという。

 永禄十三年(1570)、織田信長の家臣となった九鬼嘉隆は志摩の平定を進め、国府城に迫った。嘉隆は三浦新介に臣従を説いたが断られたという。臣従を拒否した三浦新介は飛騨国へ逃れたと伝えられているが、その後の消息は分からない。海に生きた男も晩年は海を忘れるかのように山奥で静かに余生を送ったのであろうか。

 慶長五年(1600)の関ケ原合戦に際して九鬼氏は親子が東西に分かれて戦うことになった。西軍に付いた嘉隆が鳥羽城を占拠したため、東軍の守隆は海路安乗に上陸して国府城に陣を構え、鳥羽城へ進撃したとされている。

 現在、城址に鎮座する稲荷大明神は三浦新介が崇拝していたもので、家老井村武衛門が代々これを引き継いで今に至っているとのことである。


▲城址から眺めた国府の海。
 ▲国府城跡への入口。
▲入口鳥居の脇に立てられている説明板。

▲城址説明板と共に立つ三浦稲荷大明神由来記。

▲城主三浦新介が崇拝していた稲荷大明神。

▲曲輪跡。

▲曲輪跡を取り巻く土塁。
----備考----
訪問年月日 2015年6月6日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「日本城郭大系」他

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