波切城
(なきりじょう)

            三重県志摩市大王町波切       


▲波切城は南北朝期に九鬼氏によって築かれた水軍(海賊)城である。
戦国期には水軍大名となった九鬼嘉隆が生まれた城として知られている。
(写真・大王崎灯台から見た八幡さん公園。)

再起の誓い

 南北朝時代の貞治二年(1363)、紀州九鬼浦(尾鷲市九鬼町)を根城としていた九鬼三郎右衛門尉隆良は志摩国波切の川面氏(養子に入ったとも言われる)を配下にすることで念願の志摩進出を果たした。志摩半島に突き出た大王崎は熊野灘と伊勢湾を航行する廻船を見張るには絶好の場所である。しかも岬の背後には入り江があって船溜まりを擁している点、海を支配する海賊衆にはもってこいの地形でもあった。九鬼氏の祖先は熊野別当長快(平安末期)と言われているが定かではないようだ。
 波切城を本拠地とした九鬼氏は波切、名田、畔名、立神などの地を支配下に治め、大王崎沖を航行する廻船から通行税を取り立てたものと見られている。従わぬ場合は海賊行為に及ぶこともあったようで、船乗りからは大いに恐れられたという。
 九鬼氏の系譜には諸説あるが一般的には隆良の後、隆基、隆次、泰隆、定隆と続く。天文十年(1541)には四代泰隆が伊勢国司家北畠氏に属して田城城へ移って本拠とし、波切城は支城となった。
 天文十一年(1542)、五代定隆の三男として嘉隆が波切城で生まれた。嘉隆の長兄浄隆は九鬼氏の家督を継いで田城城にあった。
 永禄三年(1560)、浄隆と嘉隆は共に勇猛果敢にして才知に長け、周辺土豪との争いが絶えなかったようで、志摩十三地頭と呼ばれる土豪衆は盟主である鳥羽の橘宗忠や北畠氏の後援を得て九鬼氏討伐の兵を挙げた(年次には諸説あり)。地頭連合の軍勢は九鬼氏の本城である田城城を包囲して攻め立てた。城主浄隆は弓の名手として知られ、城兵の士気も高く、寄せ手は攻めあぐねてしまったという。ところが、籠城戦の最中に浄隆が急死してしまったのである。城主は浄隆の子澄隆が継ぎ、波切城から応援に来ていた嘉隆が補佐した。しかし、北畠氏の援軍を得た寄せ手の猛撃によってついに田城城は落城、澄隆は朝熊山へ逃亡、嘉隆は波切城へ戻った。
 田城城を落とした地頭連合は波切城へと押し寄せてきた。田城城から戻っていた嘉隆は城の防備を固めはしたものの多勢に無勢では戦にならず、たちまち一の木戸を破られて連合勢が城内に乱入してしまった。嘉隆は再起を誓い、わずかな供回りを従えただけで船に飛び乗り、城を脱したと言われる。

 六代続いた志摩九鬼氏の歴史はここで一旦途絶えることになる。しかし、滅亡してしまったわけではない。再起を誓う嘉隆は波切城を海路脱出して安濃津へ向かった。
 その後、尾張の織田信長の台頭が著しいのを見た嘉隆は伊勢攻略の先鋒で蟹江城主であった滝川一益に接近したようである。永禄十一年(1568)頃、嘉隆は信長の拝謁を受け、一益の与力となって織田家臣団の端に連なることになった。
 永禄十二年(1569)の信長による伊勢攻略には織田水軍を率いて活躍、その勢いで志摩平定の戦いに入った。嘉隆はかつて九鬼氏を追討した地頭衆を次々に討ち従えて九鬼氏の本城であった田城城に凱旋した。この時、波切城には朝熊山に潜んでいた澄隆が入ったと言われている。
 天正十年(1582)、嘉隆は九鬼氏の家督を継いでいる澄隆を暗殺して名実ともに九鬼氏の当主となったと言われる(天正二年とも言われる)。


▲八幡さん公園から眺めた大王崎灯台。灯台の建つ部分及び波切神社を含む一帯が城域であったようで、広大な規模を誇る水軍城であったと思われる。
 ▲大王崎灯台へ向かう途中に八幡さん公園がある。ここに「波切九鬼城址」の碑が建てられている。
▲城址碑には波切城の概略が記されている。

▲城址碑の建つ一画は削平されて曲輪跡を想起させるが、単に公園化のための広場なのかもしれない。

▲城址碑の所から一段高くなって海に突き出した区画がある。いかにも城跡を思わせる切岸である。

▲切岸の反対側。土塁状の高まりが連なる。

▲海に突き出た区画。

▲八幡社。暴風に耐えられる仕様なんでしょうか。

▲公園から西側の展望。

▲大王崎灯台から見た公園。
----備考----
訪問年月日 2015年6月6日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「日本城郭全集」他

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