田城城
(たしろじょう)

市指定史跡

            三重県鳥羽市岩倉町       


▲田城城は戦国期に九鬼氏が本拠とした城である。しかし、九鬼氏の勢威が強まるの
を恐れた土豪連合の軍勢によって攻め落とされ、九鬼氏は一時的に没落してしまう。
(写真・城址である九鬼岩倉神社の社叢。)

土豪連合に敗れた九鬼氏の本城

 天文十年(1541)、九鬼氏四代泰隆が当城を築いて拠ったと言われているが、当地にはそれ以前に志摩十三地頭のひとりである田城左馬之助が居たらしい。海賊衆の九鬼氏がなぜ海から離れた当地に拠点を構えたのかはよく分からないが、おそらくは兵糧米の確保が目的であったのかもしれない。ともかく九鬼氏は田城城を本拠地としたため、それまでの根拠地であった波切城(志摩市大王町)は支城となった。そして、伊勢国司北畠氏に属して二見七郷を与えられたとされている。

 それから五代定隆を経て六代浄隆の頃になると志摩十三地頭(小浜、安楽島、浦、千賀、的矢、三浦、甲賀、国府、九鬼、越賀、和具、田城、鳥羽)あるいは志摩七党(九鬼、相差、三浦、武田、青山、佐治、浜島/史料により異同あり)と呼ばれる土豪衆の領分を脅かすような存在になっていたようである。

 永禄三年(1560)、九鬼氏の勢威に脅威を感じた土豪衆は結束して北畠氏の援軍を請い、九鬼氏討伐の行動に出て田城城に押し寄せたのである。一方の田城城の城主九鬼浄隆は弓の名手として名高く、しかも城の周囲は湿地帯である。寄せ手はたちまち攻めあぐねてしまったようである。ところが、この戦いの最中に城主浄隆が急死してしまったのである。死の原因は分からないが、遺児澄隆が九鬼当主と城主を引き継ぎ、波切城から駆け付けた浄隆の弟嘉隆がこれを補佐して継戦したようだ。しかし、頼みの城主を失った城兵の士気は上がらず、終には落城してしまった。嘉隆は波切城へ、澄隆らは城を脱して西の山中へと落ち延びた。山岳信仰の聖域、朝熊山に潜伏したとされている。波切城へ逃げ帰った嘉隆も土豪衆に攻められ、海路脱出して志摩を離れた。

 その後、嘉隆は滝川一益に接触して親交を重ね、織田信長の臣下に列することになる。永禄十二年(1569)、信長の伊勢進攻に際して嘉隆は織田水軍の将として活躍した。

 信長が北畠氏を降した後、嘉隆は志摩七党あるいは十三地頭と呼ばれる土豪たちを攻撃して追放、又は自害に追い込み、あるいは臣下に組み込むなどして志摩を平定して田城城に入った。そして信長は嘉隆に九鬼家の家督を継ぐように命じたと言われている。この時、嘉隆は澄隆を波切城に置いたと言われる。

 天正十年(1582)、嘉隆は鳥羽主水(嘉隆の舅橘宗忠か)に命じて澄隆を暗殺し(年次等諸説あり)、当主の座に就いたとされる。天正十三年(1585)から嘉隆は鳥羽城の築城を始めたというから、その頃に田城城は廃城となったものと思われるが、慶長五年(1600)の関ケ原の際に西軍に付いた嘉隆が田城城に拠り、東軍に付く嫡男守隆の軍勢と一戦を交え、ここから答志島へ逃れたとも言われている。

 寛永三年(1626)、城跡には澄隆の怨霊を鎮めるために、初代鳥羽藩主となった守隆によって九鬼惣領権現が祀られた。


▲城址に鎮座する「九鬼岩倉神社」。
 ▲国道167号線の「九鬼岩倉神社前」の信号機東側が城址である。
▲史跡標柱と共に立てられている説明板。

▲城址は神社の境内地となっている。

▲石段を上がりきると尾根状の参道の奥に社殿が建つ。

▲参道の両脇には土塁状の高まりが見られるが、遺構なのであろうか?

▲九鬼岩倉神社の扁額。
----備考----
訪問年月日 2015年6月6日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「日本城郭全集」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ