小瀬戸城
(こぜとじょう)

        静岡県静岡市葵区小瀬戸         


▲ 小瀬戸城は駿河南党の狩野氏によって本城である安倍城の支城として
築かれたという。戦国期には朝比奈氏が改修を加え、城として維持された。
(写真・小瀬戸城本丸と城址碑。遠方の背景は安倍城とその城砦群が築かれた山々である。)

御所を抱えた南党の山城

 この小瀬戸城は駿河南党の領袖である狩野介貞長が本城である安倍城の支城のひとつとして築いたものとされている。位置は安倍城の南西4.6km、藁科川西岸にある。築城の時期は不明であるが、建武の新政(1334)が破れて後醍醐天皇が吉野に移った延元元年(1336)に武者所に詰めて京に居た狩野貞長も京を離れて駿河に戻ったものと思われ、この頃に安倍城をはじめとする城砦群が整備され、小瀬戸城も築かれたのであろうと思われる。
 延元四年(1339)からその翌年にかけて足利幕府軍による遠江南党(井伊氏)の攻撃が行われ、遠江における南朝勢力は壊滅したが駿河の狩野氏らの南朝勢力はその後も勢力保持して健在であった。興国四年(1343)には南朝の重臣北畠親房と興良親王が狩野貞長に迎えられ数年間滞在している。この間に遠江を落ちた宗良親王も狩野氏の許を訪れ、甥の興良親王に会ったといわれる。
 小瀬戸城の西側山麓に新東名高速道路静岡SAがある。かつてここは御所の谷と呼ばれた所で、興良・宗良両親王が滞在した場所であったとも言われている。小瀬戸城が安倍城の単なる支城ではなく、ある程度重要な使命を持った城であったといえる。城下を流れる藁科川沿いの街道を北に向かえば安倍城の城砦群よりさらに峻険な無双連山を中心とする徳山城砦群が南党の拠点として存在している。小瀬戸城は、この街道を塞ぐことによって幕府軍の北上を阻止し得る位置にあるのだ。
 興国六年(1345)秋、宗良親王は狩野貞長らと名残を惜しみながら信濃へ移り、さらに正平二年(1347)には興良親王も北畠親房とともに安倍城を去って吉野に戻ってしまった。

 正平七年(1352)、今川範氏、伊達景宗らによる駿河南党に対する総攻撃が始まり、翌年二月には徳山城も落城して南党勢力は一掃された。小瀬戸城の落城もこの時のことであったろう。
 その後、今川氏の領国化が進み、藁科庄は今川重臣朝比奈氏の治める所となった。藁科街道は駿河府中へ通ずる主要街道のひとつであるところから小瀬戸城は朝比奈氏によってある程度は維持されたものと思われる。
 永禄十一年(1568)十二月、武田信玄の駿河進攻によって駿府の今川氏真は館を脱して遠江掛川城へ逃げ込んだ。この時、追撃する武田勢と今川勢が小瀬戸城で戦ったとも言われるが定かではない。
 現在私たちが目にする小瀬戸城の遺構は戦国期のもので朝比奈氏によって整備されたものと思われる。


▲ 本丸と二の丸の間に設けられた堀切跡。
 ▲ 新東名をくぐると駐車スペースがある。そこから東を見ると登城口の階段が見える。
▲ 新東名沿いに階段を上がる。

▲ 新東名沿いに階段を上ると北の出丸跡の踊り場に出る。

▲ 北の出丸の踊り場で方向転換して階段が続く。かつての大手道だそうだ。

▲ 階段を上りきると二ノ丸である。半分は茶園となっている。

▲ 堀切を越えると本丸である。

▲ 本丸。

▲ 本丸から藁科川方面を展望。

▲ 「御所の谷」と呼ばれた地は新東名上りの静岡SA用地となって消滅したものと思われる。
----備考----
訪問年月日 2012年4月29日
主要参考資料 「静岡県古城めぐり」
「静岡県の城物語」他

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