鷺山城
(さぎやまじょう)

              岐阜県岐阜市鷺山        


▲ 鷺山城は戦国時代に土岐頼芸が居城とし、そして斎藤道三が隠居の場とした城跡
である。現在、山麓にあったとされる居館跡は見られないが、山上には曲輪跡と思わ
れる削平地や堀切跡を偲ばせる地形が見られ、戦国期山城の面影をとどめている。

国盗り道三、
     終の居城

 鷺山城が最初に築かれたのは文治の頃(1185-90)と言われるから源頼朝の奥州攻めの頃のことになる。そして佐竹常陸介秀義がこの城に居住したと伝えられているそうだ。
 佐竹氏は新羅三郎義光を祖とし、常陸国内で大きな勢力を築いた源氏である。秀義は義光から五代目、佐竹氏を名乗った昌義からは三代目にあたる。
 その佐竹氏がなぜ美濃に城館を構えるに至ったのか。たしかに秀義の子等の子孫が美濃に定着して美濃佐竹氏を称してはいる。その間の経緯でこの城が築かれたのかもしれないが、詳細は分からない。
 室町時代になると美濃国の守護土岐氏の持ち城となったようだ。そして永正の頃(1504-21)に土岐頼芸がこの鷺山城を居城としていた。
 土岐頼芸の父政房は永正六年(1509)に守護所を革手城から福光に移した。鷺山城は新守護所となった福光館の南に隣接していた。政房は長男頼武よりも次男の頼芸を溺愛していたといわれる。つまりは手近な場所に可愛い頼芸を置いたかたちとなっていた。
 この後、長男頼武と次男頼芸が美濃の勢力を二分して家督争いに発展するのである。頼武には守護代斎藤氏が、頼芸には小守護代長井氏が付いて美濃は戦乱の巷と化した。この時、頼芸を推した長井氏一族の長井新左衛門尉という武士が登場するのであるが、最近では後の斎藤道三の父であるとみられている。
 無論、若き道三もこの戦乱の中で活躍したものと思われる。
 この戦乱は二十年ほど続き、その間に頼武が守護の座に就いたり、頼芸が再挙兵したりするなどして天文五年(1536)に至って頼芸が正式に守護となった。この間、頼芸は革手城、福光館、あるいは稲葉山城下の枝広館、または大桑城に入るなどしており、鷺山城からは離れていたようだ。
 この頼芸、天文十一年(1542又は天文二十一年/1552)に斎藤道三によって美濃を追われてしまった。
 守護頼芸を追放して美濃一国の主となった斎藤道三は天文二十三年(1554)に居城としていた稲葉山城(岐阜城)と家督を子の義龍に譲り、ここ鷺山城に入って隠居した。
 鷺山城には長良川の水を引き入れた庭園が造られていたといわれるから、山麓に居館があったのであろう。

▲ 南側から見た鷺山城。
 弘治二年(1556)、道三と義龍の不和が顕在化して武力衝突に至った。不和の原因が義龍は道三の子ではなく頼芸の子であったところにあると言われているが真偽のほどは定かではない。しかし、家臣団の多くが義龍側に付いたことを考えると、道三の国内統制の強引なやり方に問題があったとも思われる。
 ともかく、長良川の戦いで道三は七倍の兵力を擁した義龍勢と合戦、あえなく討死してしまった。そして、鷺山城もこの後に廃されたようである。

 ▲ 鷺山東麓の北野神社。

▲ 昭和39年(1964)頃の造成工事の際に南側山腹付近から出土した礎石(と思われる)が神社境内に安置されていた。

▲ 鷺山公園入口。ここの石垣は城とは関係ない。

▲ 鷺山から金華山を望む。山頂の岐阜城模擬天守が小さく見える。

▲ 城山の南側は採土によって削られた。その跡地には巨石がモニュメント風に組まれていた。

▲ 山頂の南側一段低くなった平場。南曲輪跡と呼べそうな所である。

▲ 南曲輪と思われる平場に立てられた城址説明板。

▲ 山頂部はこのように削平された平場となっている。主郭跡と思われる。

▲ 山頂部の平場(主郭)の北側の通路は堀切跡を思わせる。
----備考----
訪問年月日 2011年8月12日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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