要害城
(ようがいじょう)

国指定史跡(要害山)、続百名城

            山梨県甲府市上積翠寺町    


▲要害城は躑躅ヶ崎館の詰城として武田信虎によって築かれた。築城の翌年、今川勢の
甲府侵攻により、信虎の妻大井夫人がここに避難、男子を出産した。後の武田信玄である。
(写真・主郭に建つ東郷平八郎書「武田信玄公誕生之地」碑)

信玄誕生の城

 武田宗家の争いを克服し、国人衆の反抗を平定しつつあった武田信虎は永正十六年(1519)八月に新館の建築を始め、その年の十二月には石和館からの移転を完了した。新たな守護所である躑躅ヶ崎館である。

 その半年後の永正十七年(1520)六月に積翠寺郷の丸山(要害山)を取り立てて詰城を築いた。それが要害城である。

 翌大永元年(1521)九月、駿河の守護大名今川氏親は重臣で高天神城主福島兵庫正成に駿河、遠江の軍勢一万五千を授けて甲斐へ進撃させた。駿遠軍は大井氏の富田城(南アルプス市)を落として拠点とし、十月中旬になると府中目指して再び進撃を開始した。

 対する武田信虎は身重の大井夫人を要害城へ避難させると二千の兵を率いて躑躅ヶ崎館の西南約3kmの荒川岸(甲府市富士見)へと進出して布陣した。一万五千対二千、明らかに信虎は劣勢である。しかも戦場は館の目と鼻の先である。十六日、動き出した駿遠軍に対し信虎は地の利を生かして果敢に迎え撃ち、百余人を討ち取って撃退に成功した。飯田河原の戦いである。

 駿遠軍の大将福島正成は信虎勢の奮戦を目の当たりにして躑躅ヶ崎館の攻略を断念したという。正成は一旦、勝山城(甲府市上曽根町)へ軍を退いた。

 駿遠軍を撃退したとはいえ国外へ退却させた訳ではない。武田信虎は駿遠軍の再攻に備えて警戒を続けた。そんな折の十一月三日、要害城に避難していた大井夫人が男子を出産した。後の武田信玄である。緊張の続いていた武田勢の士気はいやがうえにも上がった。

 十日、武田信虎は荒川岸に再び現れた駿遠軍に対峙すべく躑躅ヶ崎館を出陣して上条河原に布陣した。飯田河原から2kmほど上流である。戦機が熟したのは二十三日であった。雪の舞うこの日、両軍入り乱れての戦いは一日中続いたという。夜に入って信虎は別動隊を率いて敵の本陣を奇襲、正成以下の武将首多数を討ち取って大勝利した。

 敗走した駿遠軍は富田城で越年した後、翌大永二年(1522)一月、駿河へ退去した。

 その後、武田氏は信虎、晴信、勝頼と続いて行くが、その間に要害城を必要とする事態は起きていない。無論、城としては維持されており、城番として駒井次郎左衛門、武藤山城、駒井昌直の名が伝えられている。

 天正十年(1582)の武田氏滅亡後は天正壬午の乱を経て甲斐は徳川家康の支配するところとなり、武田旧臣の日向玄東斎、同半兵衛正成らが要害城の城番となった。また、豊臣期には加藤光泰が要害城を修築している。

 慶長五年(1600)の関ケ原合戦後、再び徳川家康のものとなり、廃城となったらしい。


▲主郭の土塁。要害山は山梨百名山にも指定されている。

▲積翠寺付近から見た要害山。

▲登山者用駐車場。

▲駐車場から仲川を渡るとすぐに登山口である。

▲要害山遊歩道の案内板。

▲さあ、登山開始だ。

▲登山開始25分で最初の門跡に到着。

▲そして最初の曲輪「不動曲輪」である。

▲不動曲輪に建つ武田不動尊。

▲不動曲輪の上の石積の残る門跡。

▲そして曲輪跡。

▲主郭入口の門跡。ここまで40分。健脚の方なら30分位だろう。

▲主郭を取り巻く土塁。

▲主郭と土塁。
----備考----
訪問年月日 2022年4月2日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「山梨の古城」他

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