鉢形城
(はちがたじょう)

国指定史跡・百名城

            埼玉県大里郡寄居町鉢形     


▲鉢形城は長尾景春が築き、後に関東管領上杉氏の拠点と
なった。その後、後北条氏の北関東支配の重要拠点となった。
(写真・本曲輪南外側の様子)

北関東支配の要

室町中期、関東管領を補佐する家宰という地位は関東の武士たちに対して強力な立場にあった。文明五年(1473)、その関東管領山内上杉家の家宰で武蔵国守護代でもある長尾景信が死去した。景信の嫡男景春は当然自身に家宰と守護代の職が関東管領上杉顕定から認められるものと思っていた。祖父景仲、父景信と二代続けて家宰職を認められていたからである。

ところが、上杉顕定は景春の叔父長尾忠景に家宰と守護代職を継がせたのである。景春の管領家に対する反意は時を経るとともに高じ、文明八年(1476)には鉢形城を拠点として反旗を翻すに至った。史上における鉢形城の登場である。

これは「長尾景春の乱」と呼ばれ、四年に渡って関東を争乱の巷と化した。当初、景春は五十子陣(関東管領山内上杉氏が古河公方との抗争に際して築いた陣城/埼玉県本庄市)を襲い、上杉顕定を上野国へ敗走させて反上杉勢力を結集した。

しかし、扇谷上杉氏の家宰太田道灌の反撃で関東各地の景春方は鎮圧され、文明十年(1478)には後ろ盾であった古河公方足利成氏が上杉氏と和睦すると道灌は鉢形城を攻め落とした。鉢形城には上杉顕定が入り、関東管領山内上杉氏の居城となった。敗退した長尾景春は秩父の山中に逃れたが、文明十二年(1480)に最後の拠点としていた日野城(秩父市)を道灌に落とされて乱は終息した。

その後、関東の争乱は山内、扇谷の両上杉氏の戦いとなる。「長享の乱」と呼ばれるもので長享元年(1487)から永正二年(1505)にかけて戦いが続いた。鉢形城が山内上杉顕定の拠点となり、扇谷上杉定正の川越城との間で激しい戦いが繰り広げられた。

当初の戦いは古河公方と組んだ扇谷上杉定正が連戦連勝で優勢であったが、定正が戦陣で落馬、急死してからは形勢が逆転した。古河公方と和睦した上杉顕定は川越城近くに陣を張って攻め立て、ついに定正の後を継いだ上杉朝良は降伏して乱は終息した。

永正七年(1510)、上杉顕定が越後の内乱で討死すると山内上杉氏の内紛へと発展した。当初は顕定の養子で古河公方足利成氏の子顕実が関東管領を継いで鉢形城に入った。しかし、同じく顕定の養子上杉憲房を擁する長尾景長によって鉢形城は落城、憲房が山内上杉の家督と関東管領を継いで鉢形城主となった。

大永五年(1525)、上杉憲房が没すると子の憲政が継いだが、この頃には相模の後北条氏による武蔵国進出が著しく、戦乱の様相は古河公方、山内上杉、扇谷上杉の三者抗争から後北条氏を加えた新たな段階へと変わって行くことになる。

天文六年(1537)、北条氏綱は扇谷上杉の居城川越城を攻め取り、城主上杉朝定は松山城へ後退した。天文十五年(1546)、古河公方、山内、扇谷の両上杉の三者は協同して八万の大軍で川越城を囲んだが、北条氏康の奇襲によって大敗した。河越野戦である。この戦いで扇谷上杉朝定は討死、山内上杉憲政は上野国平井城へ撤収した。憲政は天文二十一年(1552)、北条氏康に平井城を追われ、越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。

河越野戦後、鉢形城は武蔵七党猪俣党の流れで山内上杉氏の家老であった藤田康邦の管理下にあったと言われる。康邦は鉢形城の西約7kmの天神山城(長瀞町岩田)を居城としていた。

天文十八年(1549)、藤田康邦は迫りくる後北条氏に降伏、永禄元年(1558)には娘の大福御前の婿に北条氏康の四男氏邦を天神山城に迎え、家督を譲った。

その後、北条氏邦は上杉謙信や武田信玄との抗争に備えて鉢形城に移り、大改修を加えた。現在、見られる城址は氏邦による改修、拡大されたものとされる。移った時期については永禄三年(1560)から永禄十一年(1568)の間と見られており、諸説あって明確ではない。

鉢形城は永禄十二年(1569)に武田信玄、天正二年(1574)に上杉謙信の侵攻を受けたが落城することはなかった。

天正十年(1582)、甲斐武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、その織田信長も本能寺の変に斃れた。武田旧領をめぐって徳川氏と後北条氏は争った(天正壬午の乱)が、その後和睦して後北条氏は沼田領を除く上野国を支配下に置いた。上野国支配は北条氏邦の担当であり、鉢形城は北関東支配の要の城として機能した。しかし、歴史の歯車は豊臣秀吉による天下統一へと廻っていくのである。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉は二十五万の大軍をもって関東を目指した。四月、上野国へ侵攻した豊臣方の北国勢である前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢三万五千は後北条方の城を次々と落とし、五月には鉢形城へ迫った。

これより先、北条氏邦は小田原城中にて出戦策を主張したが評議は籠城と決し、鉢形城へ帰城して三千五百の城兵とともに籠城したと伝えられている。

その後、豊臣秀吉は鉢形城に対し北国勢に加えて浅野長吉、木村一、徳川勢から鳥居元忠、平岩親吉、本多忠勝らを増援、豊臣勢は五万となった。

城主北条氏邦は城兵の助命を条件に六月十四日に至り、降伏開城を決した。負けと分かった戦で家臣の生命を無駄にしたくなかったのであろうか。その後、氏邦は前田家預かりとなり、慶長二年(1597)に金沢(七尾とも)にて没した。

戦後、徳川家康が関東へ入国すると鉢形城には家臣日下部定好、成瀬正一が入ったが、間もなく廃城となったらしい。


▲鉢形城歴史館裏の深沢川の北側に残る土塁。

▲二の曲輪馬出の切岸。

▲鉢形城歴史館入口の冠木門。

▲鉢形城歴史館。

▲後北条氏時代に拡張された外曲輪。

▲二の曲輪と外曲輪の間を流れる深沢川。橋が架けられている。

▲二の曲輪の馬出。

▲本丸南側の土塁。

▲二の曲輪と土塁。

▲本曲輪。

▲城址案内板。
----備考----
訪問年月日 2023年5月10日
主要参考資料 「鉢形城指南」
「関東の名城を歩く南関東編」他

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