笠間城
(かさまじょう)

:市指定史跡

            茨城県笠間市笠間       


▲笠間城は鎌倉初期に宇都宮氏一族の時知が僧兵の争いに介入して当地に築城した
ものである。以来三百八十年笠間氏の居城であったが、秀吉の天下統一時に滅ぼされ、
江戸期には徳川譜代の城として関東ではめずらしく石垣造りの近世城郭に改修された。。
(写真・天守曲輪への石段と石碑。)

笠間氏三百八十年、そして徳川譜代石垣の城へ

 鎌倉初期、この地方では佐白山正福寺(現・笠間城跡)と布引山徳蔵寺(東茨城郡城里町徳蔵/笠間城跡の北8.5km)の僧兵が勢力争いを繰り返していた。正福寺は百坊、徳蔵寺は三百坊と言われているので正福寺の方が劣勢であったのであろう。正福寺の生田坊は下野国の有力御家人であった宇都宮頼綱に援軍を乞うたと言われる。
 元久二年(1205)、宇都宮頼綱は弟の塩谷朝業の子で猶子となっていた時朝に精兵を授けて派遣したとされる。時朝は佐白山西麓に拠点を築いて徳蔵寺の僧兵を打ち破った。ところが、時朝のあざやかな勝ち戦ぶりに正福寺の僧兵らは恐れをなして逆に敵対したというのである。時朝は佐白山に兵を進め、堂宇僧坊三百を悉く破壊して滅ぼしてしまった。そして拠点とした砦を改修して堀と土塁で囲み、城館を築いて居城とした。現在の笠間稲荷神社とその周辺部が時朝の築いた城館跡とされ、「麓城」と呼ばれている。ただし、時朝の生年が建仁三年(1203)頃とされており、両寺院の争いに派遣されたのは時朝の父朝業であったとも見られている。
 承久元年(1219)、笠間氏を名乗った時朝は佐白山上に築城を始め、嘉禎元年(1235)に完成したと言われる。
 南北朝期には五代泰朝が南朝方に属して北朝方の佐竹(小瀬)義春の攻撃を受け、籠城戦の末に撃退したことが伝えられている。この頃に山城としての笠間城が整備されたものと思われる。結局は足利氏に降伏し、その後は宇都宮氏に属して代を重ねた。
 戦国期に入ると、宇都宮氏麾下で三千貫を領していた十七代幹綱は隣接する益子重綱と領地争いを繰り返していた。両者ともに宇都宮氏麾下にあったが互いに独立意識が高く、天正十一年(1583)には笠間勢が益子勢を撃破するに至った。敗れた益子重綱は結城氏の支援を得て再び笠間幹綱と対戦、笠間家臣谷中玄蕃允を討死させている。翌年、幹綱は玄蕃允の弔い合戦と称して重綱の築いた富谷城を攻撃して大勝利を得た。その後、益子重綱は没落してしまう。
 天正十八年(1590)、時代は豊臣秀吉による天下統一を迎えていた。小田原城に後北条氏を滅ぼした秀吉は宇都宮城に駒を進めて関東・東北地方の仕置きを実施した。一般的には、十八代笠間綱家は宇都宮氏に反して後北条方に付いたために宇都宮国綱に攻め滅ぼされてしまったとされている。しかし、小田原攻めには宇都宮氏と共に笠間氏も秀吉方に参陣していたと言われ、真相は分からない。おそらく、秀吉から所領を安堵された宇都宮氏が独立性の高い笠間氏を領国平定の名目で滅ぼしてしまったのかも知れない。
 文禄元年(1592)、宇都宮国綱は家臣玉生勝昌、範昌父子を笠間城主とした。ところが、慶長二年(1597)に突如として宇都宮氏は領地没収、改易させられてしまったのである。

 慶長三年(1598)、宇都宮城には蒲生秀行が入り、笠間城にはその重臣蒲生郷成が三万石で城主となった。この時に織豊系城郭に改修されたと見られている。
 関ケ原後の慶長六年(1601)、徳川譜代の松平(松井)康重が三万石で入部、立藩となった。その後、数年単位で藩主が目まぐるしく入れ替わる。慶長十三年(1607)小笠原吉次、慶長十七年(1612)松平(戸田)康長、元和三年(1617)永井直勝である。
 笠間城は永井氏の時に石垣を用いた近世城郭化の工事が進められ、三層の天守が建てられた。関東地方にあって石垣を用いた城郭は極めて珍しいが、それだけに徳川幕府が東北諸藩の押さえのために笠間城を重視していたことになろうか。
 元和八年(1622)、浅野長重が五万石で入部して城郭が完成したとされる。二代長直は御殿や役所を山下に移して下屋敷としている。正保二年(1645)、赤穂に転封となる。長直の孫が忠臣蔵で有名な内匠頭長矩である。
 浅野氏の後、井上正利、正任の二代、元禄五年(1692)から本庄宗資、宗俊の二代、同十五年(1702)には再度井上氏が入部して三代続いた。延享四年(1747)、牧野貞通が藩主となり八万石を領して八代続き、明治に至った。


▲かつて本丸八幡台にあった二階櫓。現在は城址北西麓の真浄寺に移築され、七面堂として使用されているという。県指定文化財の建造物となっている。
 ▲訪城前にかつて笠間城本丸八幡台に建てられていた二階櫓が移築されている城址西北麓の真浄寺に立ち寄った。
▲真浄寺境内に移築された二階櫓。

▲さあ、いよいよ登城である。笠間城大手門跡前の千人溜と呼ばれる大きな曲輪が駐車場となっている。

▲千人溜から先は車両進入禁止なので、ここからは徒歩である。

▲歩き始めてすぐに大手門跡となる。笠間城大手門跡の石碑が建っている。

▲大手門跡から道なりに歩いて行くと周囲には苔むした石垣を見ることができる。

▲二の門跡付近の石垣。

▲本丸の入口玄関門跡付近の石垣。

▲本丸跡。

▲本丸南西側は高くなっており、八幡台と呼ばれている。

▲八幡台の東端部には先の真浄寺に移築されている二階櫓が建っていた。現在はその跡に笠間城八幡台櫓跡の碑が建っている。

▲本丸片隅に建つ城址碑。

▲これも本丸東端部に建つ城址碑。城の由緒が刻まれている。

▲本丸内に立つ説明板に描かれた城址図。

▲本丸から東へ向かう。天守曲輪方面への道。

▲堀切。

▲天守曲輪への石段。笠間城天守跡の碑が建っている。

▲石段を登り切ると天守台の石垣が現れる。

▲2011年3月の大震災以降、石垣には崩落防止の処置が施され、立ち入り禁止となっている。

▲天守台の脇をさらに上る。

▲最高所に鎮座する佐志能神社。天守櫓の古材が使われているそうだ。こちらも訪城時には立ち入り禁止となっていた。
----備考----
訪問年月日 2015年5月2日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「関東の名城を歩く・北関東編」他

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