真壁城
(まかべじょう)

国指定史跡

            茨城県桜川市真壁町古城       


▲真壁城は平安末期に多気長幹が当地に入部して真壁氏を称したことに
はじまり、南北朝期から戦国期にかけて拡張整備され続けた。戦国末
期には佐竹氏麾下に組み込まれ、やがて出羽角館に移ることになる。
(写真・真壁城外曲輪南側の土塁と堀。)

戦国の荒武者、鬼道無

 承安年間(1171-75)に常陸平氏の一族多気直幹の子長幹が真壁郡の郡司職となって入部、真壁氏を称して当地に館を構えた。この館がその後の真壁城の位置であったのかは諸説あって明らかではないのが現状である。

 源平の争乱を経て長幹は源頼朝に臣従して文治年間(1185-90)には地頭に補任されて所領を安堵されている。その後は鎌倉幕府の有力御家人として代を重ねたが、幕府が滅びて南北朝の争乱期に入ると六代幹重は南朝方に従った。

 しかし、南北朝の争乱は一族家臣の間に分裂を生じさせ、康永三年(1344)には七代高幹が足利尊氏に従ったことで所領を安堵されている。文和年間(1352-56)にも南北両朝によって争奪が繰り返されていた京都の戦場へ九代広幹が尊氏に従って出陣している。

 南北朝の争乱を経て、関東には鎌倉府が置かれて新たな争乱の時代を迎えることになる。応永二十四年(1417)の上杉禅秀の乱で鎌倉府に従っていた十一代秀幹は乱後、室町幕府に接近して京都扶持衆となって応永三十年(1423)に将軍足利義持から所領安堵を受けている。

 ところが、京都から扶持を受けたことが仇となって鎌倉府の討伐を受けることになってしまったのである。この戦いで真壁城は落城、当主秀幹以下真壁氏は真壁を追われて流浪の身となってしまうのである。真壁の所領の多くは鎌倉府方の宍戸氏に与えられた。

 流浪の一族の中で朝幹が十三代当主となり、旧領奪還の戦いを進めるなか、永享の乱(1438)で滅びた鎌倉府が文安四年(1447)に足利成氏によって再興されると、これに接近した。康正二年(1458)、古河公方によって真壁旧領南半の所領を安堵され、朝幹は真壁氏中興の祖と呼ばれるようになった。朝幹は文明十二年(1480)に没したが、残された置文(遺言)の中には要害(城)を構え昼夜用心、兄弟間を悪くする者は成敗、兄弟は水魚の如く協力すべし、といったことなどが書き残されているという。

 世は戦国の様相が激しくなり、真壁氏も近隣諸豪の間で生き残りを賭けた戦いの渦中に巻き込まれて行くことになる。天文年間(1532-55)に若くして家督を継いだ十七代久幹は長男に北条氏政の一字を貰い受けて氏幹と名乗らせた。永禄四年(1561)には佐竹義昭と結び、次男を義幹と名乗らせている。久幹の労苦が垣間見えるようである。

 久幹の戦場における活躍は近隣に鳴り渡り、「鬼道無・夜叉真壁」の異名を取ったことで知られる。剣豪塚原卜伝の弟子となって神道霞流を創始し、戦場では周囲八寸(約24cm)、長さ一丈(約3m)の筋金入りの赤樫の棒に鉄鋲をぎっしり打ち付け、当たるを幸い人馬もろとも薙ぎ倒すという荒武者であったと伝えられている。永禄十二年(1569)の手這坂合戦では小田氏治とその軍勢に圧勝、氏治を小田城から締め出している。さらにこの戦いで当地域では鉄砲を使用するなど軍略にも長けていたようである。

 やがて豊臣秀吉による天下統一が成り、常陸は佐竹氏が大名となり、真壁氏(十八代氏幹)はその麾下に組み込まれることになる。

 慶長七年(1601)、佐竹氏は関ケ原時の去就を疑われたためか、出羽移封となる。真壁氏もこれに従うことになるが、減封の移封であるため、同行の家臣を減らさざるを得ず、氏幹を含む多くの家臣が真壁に残った。出羽国仙北郡角館に移ったのは十九代当主房幹、弟重幹と家臣の酒寄、鈴木、来栖、浜野等数人であったとされている。

 慶長十一年(1606)、空き城となっていた真壁城に浅野長政が隠居領五万石をもって入り、立藩した。慶長十六年(1611)、三男長重が二代藩主となる。

 一方、角館の真壁氏二十代重幹が800石で家督を継ぎ、その後は秋田藩家老を務めるなどして代を重ね、明治に至った。

 元和八年(1622)、浅野長重は真壁を領有したまま笠間移封(笠間城)となり、真壁城を去った。そして真壁城は廃城となった。



外曲輪北側のクランク状になった土塁線。

▲外曲輪。

▲真壁城本丸の駐車場。建物は真壁町の体育館。

▲車を降りると城址碑が目に入る。その脇に真壁城の案内図と概略の書かれたパンフが入っているポストが立っている。

▲ポストに入っていた案内図を片手に本丸から二の丸へ向かう。

▲二の丸(U郭)は本丸を囲むリング状の曲輪となっている。少し高くなっているため、中城(V郭)とその先の外曲輪(W郭)が見渡せる。

▲二の丸と中城の間の堀。その先に筑波山が見える。

▲これも二の丸と中城の間の堀。

▲中城と外曲輪の間の土塁と堀。

▲外曲輪南側の虎口。

▲虎口を出て外側から見た土塁。

▲外曲輪の土塁上を歩いて東へ向かう。木の茂っている所は外曲輪最東端で鹿島神社が鎮座する。

▲鹿島神社。この周囲にも土塁が巡っている。

▲鹿島神社北側の堀。

▲鹿島神社から北側の土塁に沿って歩く。これは外曲輪最北部のクランク状に屈曲する土塁。

▲最後に中城から全体を見渡して本丸へと戻る。

▲本丸北側には稲荷社があり、その手前に城址碑が建っている。

▲「史跡真壁城址」の碑。

▲城址碑のそばには鬼道無と恐れられた真壁久幹の開いた「神道霞流剣術発祥之聖地」と書かれた木標が立っている。

▲本丸に掲げられている案内図。
----備考----
訪問年月日 2015年5月2日
主要参考資料 「真壁家の歴代当主」
「中世の真壁氏」他

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