菅谷館
(すがややかた)

国指定史跡(比企城館跡群)・続百名城

            埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷     


▲菅谷館は鎌倉幕府草創の功臣畠山重忠の居住地であったとされ、
戦国期には山内上杉氏と扇谷上杉氏の境目の城として整備された。
(写真・本郭入口近くに建つ城址碑と説明板)

山内・扇谷境目の城

菅谷館の呼称は鎌倉幕府草創の御家人畠山重忠の居館跡に比定されていることによるものであろうが、実態は戦国期の城跡であり、菅谷城と呼んでもよい。

畠山重忠の館としての初出は「吾妻鏡」の文治三年(1187)十一月十五日条で、梶原景時の讒言によって謀反の疑いをかけられたことで重忠は「武蔵国菅谷館に引篭もり…」潔白を訴えたとあるのがそれである。

畠山氏は秩父氏の流れで、重忠の父重能が畠山荘(深谷市)の荘司となった際に館を構えて畠山の地名を名乗ったのにはじまる。重忠は畠山の館で誕生したが、いつ菅谷に移ったのかは分かっていない。少なくとも文治三年以前のことである。

次に見えるのは「吾妻鏡」元久二年(1205)六月十九日に畠山重忠が「菅屋(菅谷)の舘を出でて…」という記述である。重忠は百三十四騎を率いて鎌倉参上のために菅谷館を十九日に出て、二十二日に二俣川(横浜市旭区)に着いた。

ところが鎌倉では北条時政が「畠山謀反、これを討伐すべし」と三浦義村に命じ、先に参着していた重忠の嫡男重保を由比ヶ浜におびき出して誅殺、直ちに重忠討伐の軍が催された。そして北条義時を大将とする大軍が二俣川に向かったのである。一方的に謀反人にされた重忠は館に引き返すことをせず、潔く戦って四時間の激闘の果てに戦死した(二俣川の戦い)。

合戦後、北条義時は畠山討伐が讒訴であったとし、重忠の首を前にして涙したという。その後、義時は父時政を伊豆へ追放して執権となった。畠山の所領は没収されたものの後には重忠の未亡人(時政娘)に安堵されたという。この未亡人の再婚相手の岩松(足利)義純が畠山の名跡を継いで菅谷館に居住したとも言われている。

鎌倉期の菅谷館が史料的に確認できるのは以上であるが、現在までの発掘調査では鎌倉期の遺構は発見されておらず、遺物もわずかで、畠山氏の館跡というのはあくまで比定の域にある。

その後、菅谷館の存在は記録に残されることなく、時代は戦国時代となる。長享元年(1487)関東管領である山内上杉顕定(鉢形城)と扇谷上杉定正(川越城)が衝突、長享の乱が勃発した。

長享二年(1488)六月、川越城を攻めようとする上杉顕定勢と古河公方の加勢を得た上杉定正勢が須賀谷原(菅谷館北方周辺)で激突、死者七百人余、馬も数百匹死んだという。この戦いは上杉定正の勝利に終わったが、山内上杉顕定方の岩松家純(金山城主/群馬県太田市)の陣僧松陰が扇谷上杉定正の侵攻に対処するために「河越に対し、須賀谷旧城を再興せよ」と進言したということが記されている(「松陰私語」)。

史料的にはこれが最後で、実際に誰が菅谷城としての普請を実施したのか、誰がここに駐屯したのかは一切不明なのである。発掘調査による遺物は15世紀後半から16世紀前半のものがまとまって出土しており、この時期に菅谷館跡が山内上杉と扇谷上杉の境目の城として機能していたことが証明されている。また、後北条氏(16世紀後半)による城との見方もされていたが、その時期の遺物は発見されていない。おそらく比企地域の拠点城郭が松山城に移ったことにより、菅谷城はその役目を終えたものと思われる。


▲ニノ郭土塁上に建つ畠山重忠のコンクリート像。町指定文化財である。

▲本郭北面外側の土塁と堀。

▲埼玉県立嵐山史跡の博物館の見学者用駐車場。

▲三ノ郭東側に建設された埼玉県立嵐山史跡の博物館。

▲博物館に入ると最初に畠山重忠ロボットが出迎えてくれる。

▲城址碑と説明板。

▲城址案内図。

▲本郭虎口と土橋。

▲本郭。

▲本郭北面内側の土塁。

▲ニノ郭。。

▲ニノ郭と本郭間の堀と土塁。

▲畠山重忠の像の建つ土塁へ上がる階段。

▲ニノ郭土塁上に建つ畠山重忠の像。

▲ニノ郭と三ノ郭間の堀と土塁。

▲三ノ郭。

▲三ノ郭。
----備考----
訪問年月日 2023年5月9日
主要参考資料 「菅谷館の主 畠山重忠」
「比企城館跡群 菅谷館跡」他

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