館山城
(たてやまじょう)

                  千葉県館山市館山          


▲ 城址山頂部に市立博物館の別館として建設された模擬天守。内部は「南総里見八犬伝」
関連の資料館となっている。第二次大戦中は城址そのものが海軍の施設として利用された。
このとき山頂部は対空火器設置のために10メートル近くが削平されて拡げられた。

南総里見氏
      最後の城

 天正十九年(1591)、里見氏九代目当主義康はそれまでの居城であった岡本城からここ館山城へ移った。
 この前年、天下の諸大名のことごとくが小田原城の北条攻めのために秀吉の陣に参集した。里見義康も安房と上総半国の大名として秀吉の陣に駆け付けた。そして半世紀以上に及ぶ里見年来の仇敵北条氏もついに滅んだ。
 ところがどういうわけか合戦が終わると上総の里見領が徳川家康の版図となっていたのである。義康は秀吉に異心のないことを懸命に示して安房一国の安堵だけは取り付けた。
 そしてこのことが、義康が居城を移す結果になったのである。上総領を削られた結果、そこに所領を持つ家臣らを安房一国に収容しなければならなくなり、また家臣団を城下に住まわせるには岡本城では手狭であったのである。しかも天下人秀吉の軍役に従うにはそれなりの財力も必要であり、そのために城下町を整備して経済活動を活性化させることにも迫られていたのである。そこで湊あり、平野あり、各方面からの街道の集合地でもあるここ館山城を整備拡張して里見家の本城としたのであった。
 この上総召上げに関しては義康が秀吉の出した惣無事令に違反したためであるとされている。惣無事令とは個々の武将が武力で紛争を解決することなどを禁じたもので、義康が小田原出陣の際に上陸した三浦半島で秀吉が出すべき禁制(証文)を里見の名で出した事がこれにあたるというのである。これに加えて義康は今まで保護してきた小弓公方足利頼淳(よりずみ)をこの機会に鎌倉に復帰させようとも考えていたと云われている。
 時代は変わり秀吉の頭の中に足利氏などという存在はあろうはずがなかった。その亡霊のような古い権威をいまだに担ぎ出そうとしている里見氏が秀吉の目にどのように映ったであろうか。また関東入りが決まった家康にとっても江戸湾の入口に外様である里見氏が存在することを快く思わなかったのではないだろうか。
 義康とて、そうした秀吉や家康の思いに気付かぬはずがない。
 義康は安房一国を守るために秀吉の意には従順であろうとした。秀吉没後は家康に従い、関ヶ原合戦の時には結城秀康軍に属して宇都宮に陣した。戦後は鹿島に三万石を加増され十二万石となり、里見氏は関東最大の外様大名となったのである。
 慶長八年(1603)義康は三十一歳の若さで没した。秀吉、家康の天下のもとで生き残りのための舵取りに忙殺された生涯だったといえようか。
 義康の後を継いで十代目当主となったのは十歳の梅鶴丸であった。重臣正木弥九郎時茂、家老の堀江能登守頼忠、板倉牛洗斎昌察らが梅鶴丸を補佐した。
 慶長十一年、梅鶴丸は江戸に出向き将軍秀忠の前で元服して忠義と名乗った。「忠」の字は秀忠から与えられたものであった。忠義を補佐する重臣たちは主家の安泰をはかるために秀忠の側近大久保忠隣との関係を深め、忠隣の孫娘を忠義の室に迎えることに成功した。

 ▲ 城山公園内の「八遺臣の墓」。これは伯耆国倉吉において里見最後の当主となった忠義の死に際して殉死した倉吉随従の家臣たちの墓である。後日、これを伝え聞いた安房の里見の旧臣が漁師姿に身をやつして伯耆に出向き、蛸壺に分骨して持ち帰り、ここに埋めたのだという。また、曲亭馬琴の「八犬士」のモデルにされたとも云われている。
 しかし、本多正信、正純父子と大久保忠隣の権力闘争は慶長十八年(1613)の大久保長安事件に発展してゆくことになり、翌年大久保忠隣はついに本多父子との政争に敗れて改易となってしまった。そして里見家も連座したという理由で国替えの沙汰が出された。替地は常陸国行方郡で九万石ということであった。
 この日九月九日、忠義は重陽の祝い言上のために江戸にいたが、出仕直前になって老中から国替え申し渡しの使者がやってきたのである。忠義はそのまま謹慎、直ちに館山城請取の軍が幕命によって編成された。請取軍の主力は上総佐貫城主内藤政長、大多喜城主本多忠朝の軍でその他関東各地から動員された。
 請取軍は十六日、安房到着。十八日、館山城を接収した。
 この時点では改易ではなく国替えということであったからであろう、城の明け渡しは混乱することなく済んだようである。請取軍は接収後直ちに城を破却してしまった。わずか二十数年にして館山城は廃墟と化した。
 一方、江戸にあった忠義はこの国替えの処置を拒否した、と云われている。そのためか幕府は替地の行方郡と鹿島三万石のすべての里見領を没収して伯耆国久米郡と同国河村郡に三万石を与えるとした。
 忠義もこれ以上の抵抗を断念して伯耆国倉吉(鳥取県倉吉市)に向かった。ところが現地で与えられたのはわずかに四千石であった。
 元和三年(1617)伯耆国は池田光政の支配となり、忠義の四千石は没収され百人扶持とさせられた。それから五年後の元和八年六月十九日、忠義は病により没した。二十九歳であった。幕府は相続者無きにつき里見家断絶を言い渡した。
 その三ヶ月後、板倉牛洗斎らが殉死して果てた。殉死者は六人とも七人とも、また八人とも伝えられている。

▲ 「里見城跡」と刻まれた城址碑。 

▲ 模擬天守。

▲ 天守型博物館の最上階から見た館山湾。
----備考----
画像の撮影時期*2007/05