敏満寺城
(びんまんじじょう)

            滋賀県犬上郡多賀町敏満寺       


▲敏満寺城は戦乱の時代とともに城塞化した敏満寺がその防衛のために
設けた城砦であったと見られているが、その歴史的詳細はよく分からない。
(写真・櫓台跡とみらる土塁遺構。)

宗徒の砦

 昭和六十一年(1986)の名神高速多賀SAにおける発掘調査で土塁、空堀、平坦地、石積み、一折れ虎口などの戦国期山城遺構が検出され、さらに敏満寺周辺は手工業都市と強大な軍事力を持った城塞寺院の様相を併せ持っていたことが明らかとなったと言われている。現在ではSA(サービスエリア)内に土塁などの遺構を残し、公園として整備されて自由に散策できるようになっている。
 戦国時代に城塞化したという敏満寺は平安時代に伊吹山寺の僧三修の弟子敏満童子が開基した天台密教の寺院である。その後、発展して坊舎も増え、室町時代には守護佐々木氏や京極氏と度々対立するほどであったようである。応仁の乱(1467)以降は僧兵を擁した軍事拠点化したとされる。
 永禄五年(1562)に浅井長政(小谷城)が六角氏側に寝返った久徳氏を攻め、その居城の久徳城を落としたことがある。長政は八千余人をもって久徳城を攻め、城主の久徳左近兵衛実時以下城兵二百余人は悉く討死してしまった。久徳城は敏満寺の東北約2kmという至近にあり、この戦いに敏満寺の豊一坊、池坊、神官の新開氏ら八百余人が久徳氏に加勢したと言われている。浅井長政は久徳城を落とすと矛先を敏満寺にも向けて焼き討ちした。この戦禍で百二十以上あったとされる坊舎の殆どが炎上焼失したと言われている。

 こうした経験からであろうか、寺領を守るために土塁や櫓台、曲輪を設けた防御戦闘専用の城砦を築くに至ったのであろうか。
 元亀三年(1572)、織田信長が命に従わない敏満寺を攻めたという。この前年、信長包囲網が形成された四面楚歌の中で信長は比叡山を焼き討ちした。そして浅井氏攻略の準備を着々と進めていた時期である。敏満寺も信長包囲網に加わっていたのであろう。信長は容赦なく敏満寺の坊舎を悉く焼き討ちして、寺領も取り上げてしまった。
 SA内で発掘された城郭遺構は信長の攻撃を受けた時のものとする可能性が有力視されているようである。
 その後、敏満寺は衰微の一途をたどり、慶長年間(1596-1615)には残った礎石も彦根城普請のために運び去られてしまったという。


▲多賀サービスエリア内のドッグラン(曲輪跡)周囲の土塁跡。
 ▲名神高速道路多賀サービスエリア。
▲SAの建物の北側の広場は曲輪跡である。

▲その曲輪跡の北側の窪地は空堀の跡である。

▲空堀跡には駐車場があり、高速道路の外からでもSA内に立ち入って城址散策が可能となっている。

▲空堀北側の曲輪跡はSA内ドッグランのスペースとなっている。

▲ドッグラン入口の土塁跡。

▲土塁の一部が整備されている。

▲土塁上に建つ「清龍山敏満寺蹟碑」。

▲説明板。見にくいが説明文の下に遺構図が描かれている。現地を訪れてみてください。
----備考----
訪問年月日 2015年9月5日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「近江城郭探訪」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ