水口城
(みなくちじょう)

県指定史跡

            滋賀県甲賀市水口町本丸       


▲水口城は三代将軍家光の上洛に際して、その宿所として築城された城である。
使用されたのは一回限りで、後には加藤氏が封ぜられて水口藩が成立した。
(写真・本丸外枡形に修景建設された二階櫓の水口城資料館。)

将軍宿所として築かれた城

 寛永九年(1632)、三代将軍徳川家光は小堀遠江守政一らに命じて東海道の要地水口に宿泊用の番城の築城を命じた。
 水口には天正十三年(1585)、羽柴秀吉によって甲賀衆が改易となり岡山に東海道の押さえとして城が築かれていた。水口古城又は水口岡山城と呼ばれる城である。城主は秀吉子飼いの中村一氏、増田長盛、長束正家と続いた。慶長5年(1600)の関ケ原合戦では西軍の長束正家が岡山城に逃げ帰り、東軍に攻められて降伏開城、切腹に追い込まれ、廃城となっている。その後、水口は徳川氏の直轄地となり、慶長六年(1601)には東海道の宿駅に指定され、家康も幾度か水口に宿泊を重ねている。
 寛永十一年(1634)、家光は上洛の帰路、完成した水口城に宿泊した。将軍宿泊用の城として築かれた水口城であったが、使用されたのはこの一回限りであった。その後は幕府の番城となり城番が置かれた。
 水堀に囲まれた方形の本丸に将軍専用の宿泊施設である本丸御殿が建てられ、北側に隣接する二の丸に賄所や管理・警備の番所が設けられていた。本丸御殿は?葺(こけらぶき)で京都二条城を模した数寄を凝らしたもので庭園には「御亭(おちん)」と呼ばれる二階建て望楼風の建物が建てられていたという。
 家光が宿泊してから五十年近くを経た天和二年(1682)、加藤内蔵助明友(秀吉子飼いの武将加藤嘉明の孫)が石見国吉永から二万石で封ぜられ、水口藩が成立した。野洲川の伏流水を利用した水堀が余程綺麗であったのであろうか、明友は「碧水城」と名付けた。藩庁や御殿は二の丸に置いて本丸は使用しなかった。

 元禄八年(1695)、二代藩主明英は幕府若年寄となって下野国壬生に移り、能登国より鳥居忠英が入部した。
 正徳二年(1712)、忠英もまた若年寄に昇進して下野国壬生に移動となり、再び加藤氏が水口藩主となる。和泉守嘉矩で二万五千石を拝領、以後加藤氏が代々続いて明治に至った。
 この頃になると本丸御殿の痛みは激しくなり、正徳三年(1713)五月から老中秋元但馬守の指図によって取り壊され、本丸は堀、石垣、塀、矢倉の外観を残すのみとなった。
 平成三年(1991)、本丸東側の外枡形一帯を修景し、二層櫓を模した「水口城資料館」が開館している。


▲乾矢倉の石垣と堀。野洲川の伏流水を利用した水堀は現在も涸れることはない。

 ▲修景された本丸東側に突出した外枡形部分。

▲橋を渡ってかつての枡形へと入る。

▲橋から見た水堀。

▲城門前の白地に黒の十文字は加藤氏の軍旗である。

▲門の内側。高麗門である。

▲本丸の四隅に建てられた矢倉は一重であったが、これは資料館として建てられたものである。一部には当時の古材が使用されているという。

▲堀の外側から見た資料館。

▲説明板の本丸図。黄丸部分が修景整備された外枡形部分。御殿のあった本丸は学校のグランドとなっている。

▲滋賀県指定史跡水口城跡の説明板。
----備考----
訪問年月日 2015年9月5日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「近江の山城ベスト50を歩く」他

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