原城
(はらじょう)

国指定史跡、続百名城

           長崎県南島原市南有馬町乙      


▲ 原城は有馬氏の転封とともに廃城となったが、島原の乱により、一揆軍の牙城として
蘇った。乱後、再び破壊されて廃城となった。これは本丸櫓台跡であるが、破壊された石垣
が400年前の惨状を今に伝えている。かつては三重の櫓が天守のごとく建っていたという。

キリシタンの墓標

 原城は島原の乱の舞台となった城として知られる。築城されたのは明応五年(1496)、有馬氏八代貴純によると伝わり、居城日野江城の支城として築かれたといわれる。

 この頃の有馬氏の勢力は高来、彼杵、藤津の三郡を領していた。その後の九代尚鑑そして十代晴純の時にはさらに三根、佐嘉、神埼の三郡をその版図に加え、有馬氏は全盛時代を迎えた。

 天文二十一年(1552)、晴純は隠居して義貞が継いだ。有馬氏の勢力は義貞の代に龍造寺氏の力に押され、大きく減退して高来郡のみとなってしまった。永禄六年(1563)、領内の口之津にイエズス会の修道士が布教を始めると、義貞はこれを支援した。南蛮貿易による軍事・経済の強化が目的であったが、同時にこれは有馬氏とキリスト教との関わりの始まりでもあった。

 元亀元年(1570)、義貞は隠居して嫡男義純が継いだが、早逝したため次男晴信が当主となった。当初、晴信は父義貞の時代に建てられた教会を破壊するなどしたが、龍造寺氏への対抗上、南蛮貿易による経済的軍事的な支援は不可欠であり、天正七年(1579)には自ら受洗してキリシタンとなった。

 天正十二年(1584)、晴信は九州を席巻しつつあった島津氏と結束して龍造寺氏を沖田畷の戦いで破り、当主隆信を討取る大勝利をおさめた。天正十五年(1587)の豊臣秀吉の島津征伐では秀吉の旗下に参じ、その後の文禄・慶長の役では朝鮮に渡海して戦った。慶長五年(1600)の関ヶ原合戦では西軍であったが東軍に寝返り、宇土城攻撃の功により所領は安堵された。

 原城が城郭として大きく変貌するのはこの頃からである。発掘された石垣や建物に使用された瓦などから、晴信が織豊期の築城技術を駆使して改築したものであったことがうかがえる。慶長八年(1603)には居城を日野江城から原城へ移したといわれる。日野江城から原城大手門までの3kmほどの間には朱塗りの「からはし」が架けられ、華やかな南蛮衣装をまとった晴信とその家臣らの行列が往復したというのもこの頃のことであったかもしれない。いうまでもなく、家臣以下領民の多くがキリシタンとなった。まさに有馬領国はキリシタン王国としての全盛期にあったといえる。

 しかし晴信の治世は、慶長十六年(1611)に発覚した岡本大八事件によって終わりを迎える。翌十七年、晴信は甲斐国に流罪となり、切腹を申し付けられ、日野江藩四万石は改易没収となってしまった。晴信は死に際して自殺である切腹ではなく家臣に首を打たせたと言われている。

 晴信の日野江藩は一旦改易となったが、父とは距離を置く嫡男直純が所領を継ぐことになった。直純は幕府の禁教令に従い、キリシタンを弾圧した。しかし、旧臣や領民に対して徹底した弾圧はできなかったようで、二年後の慶長十九年(1614)に日向国延岡五万三千石に転封となり、日野江を去った。鎌倉時代より続いた有馬氏支配の終焉であった。

 元和二年(1616)、松倉重政が四万石で封じられて島原藩主となった。重政は日野江城と原城を破却して島原を藩の中心地とし、島原城を築城した。松倉氏は重政、勝家と二代続くが、両人とも重課税とキリシタンへの弾圧はすさまじく、棄教を迫る拷問や処刑は残酷を極めたものであった。

 こうした悪政に飢饉や凶作が重なり、やがては帰農した有馬旧臣らを軸にしたキリシタン一揆の蜂起へとつながってゆくことになる。

 寛永十四年(1637)十月、有馬村の代官所襲撃を皮切りに半島の村々で一揆軍が蜂起した。一揆軍は島原城を攻撃した後、十二月三日には幕府軍との戦いに備えて原城跡に集結した。その数二万四千人。島原の一揆軍とともに蜂起した天草(益田)四郎時貞(十六歳)率いる天草の一揆軍一万三千人も原城跡に合流した。合計三万七千人のうち女子供が一万四千人いたという。一揆軍は直ちに兵糧、弾薬の搬入とともに城の修復に取り掛かった。原城の復活である。

 幕府軍の攻撃は十二月十日、二十日と続き、年が明けた寛永十五年(1638)一月一日の総攻撃では上使・板倉重昌が三の丸攻撃の陣頭に立って督戦したが討死、幕府軍は敗退してしまった。

 四日、板倉重昌に替わる上使・松平信綱が着陣した。信綱は九州諸大名に増援命令を出して最終的に十二万四千余の幕府軍を結集し、戦略を長期包囲戦に切り替えた。

 二月二十一日、一揆軍は幕府軍陣地から物資を奪うための大規模な夜襲を敢行した。これは原城内の兵糧が枯渇していることを表していた。信綱は頃良しと判断して二十六日の総攻撃を決めた。そして二十六日は雨であったため、総攻撃は二十八日となった。

 総攻撃の前日である二十七日、鍋島軍が総攻撃に備えるために二の丸出丸を奪取した。これを阻もうとする二の丸の一揆軍と鍋島軍との戦闘が激しくなり、鍋島軍は二の丸内に突入して陣小屋などを焼き払った。これを見た松平信綱は明日の総攻撃を待たず、諸大名に攻撃開始を命令した。三の丸、二の丸、天草丸の城壁に幕府軍が一斉に殺到して激しい攻防戦が展開され、夕刻には本丸を残すのみとなっていた。

 二十八日未明から幕府軍は攻撃を再開した。幕府軍は本丸に突入して天草四郎を討取り、籠城の一揆軍を皆殺しにした。討取られた一揆軍の首は二万といわれる。本丸の戦闘は昼頃には終結した。

 翌三月一日には早くも本丸石垣の破却が行われ、一揆軍の遺体の上に崩され、埋められた。まるで何かを封印するかのようにして。

 四日、日野江の浜に討取られた一揆勢の首が晒され、幕府軍は帰国の途についた。

▲ 二の丸から本丸を望見。訪れる者を誘うかのように二本の椰子の木が立ってい
る。乱当時、二の丸には有馬、口之津、三会村の住民ら5,700人が守備に就いた。

 ▲ 三の丸入口の大手門跡。ここから本丸まで約800mほどある。乱当時、ここには布津、堂崎村などの3,500人が守備に就いていた。
▲ 本丸北側の空堀跡。乱当時、一揆軍によって設けられた堀である。2月21日の夜襲軍4,000人はここから出撃したといわれる。籠城の間は竹や木で柱を立て、その上を萱で覆い、老人や女子供らを収容していたという。

▲ 本丸正面虎口跡に建つホネカミ地蔵。明和三年(1766)、有馬村願心寺注誉上人が戦乱で斃れた人々の骨を拾い、その霊を慰めたものである。

▲ 駐車場から本丸へ向かう。石垣の角部や上部は破壊されている。

▲ 本丸北側の石垣。上半分が破壊されている。

▲ 本丸東側に設けられた虎口で池尻口門と呼ばれる。

▲ わずか十六歳で一揆軍の大将となった天草四郎時貞の像。彼の墓碑も近くに建てられている。

▲ 本丸跡には戦没キリシタンの慰霊のためか白い十字架が立っている。

▲ 原城跡の碑。

▲ 本丸西側の石垣。発掘の結果破壊された石垣の下から半地下式の住居跡が検出された。一揆軍の籠城生活の跡とみられている。

▲ 本丸の枡形虎口跡。発掘状況から一揆軍の遺体を投げ込み、その上に石垣を崩し、土で埋まっていたという。まさに原城はキリシタンの墓標と化していたといえる。

▲ 原城文化センター。原城から発掘された十字架やメダイが展示されており、一揆軍が信仰によって結束していたことをうかがわせる。また、人骨の発掘時を再現したレプリカなども展示されている。
----備考----
訪問年月日 2011年5月3日
主要参考資料 「日本城郭大系」
「原城と島原の乱」
「南島原歴史遺産」他

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