日野江城
(ひのえじょう)

              長崎県南島原市北有馬町戊      


▲ 日野江城本丸の最高所であり、櫓台の跡と思われる。日野江城は有馬氏累代の
居城であり、勢力の拡大とともに城の規模も拡充されてきた。近年の発掘調査の結果、
有馬晴信時代に整備された石垣や階段遺構などが発見され、注目されている。

戦国有馬氏の居城

 有馬氏の祖に関してはよく分らないが、鎌倉時代に有馬庄の地頭に任じられた経澄をもって初代とされており、建保年間(1213-19)に当地に城を構えたと伝えられている。
 日野江城が有馬氏の居城として本格的に整備され始めたのは、やはり南北朝期以降の戦国期に入ってからのことと思われる。それは国人領主としての有馬氏がその勢力を拡大する、言わば戦国化とともに拡大強化されたものといえる。
 明応三年(1494)頃の当主貴純の代には島原半島を勢力下に置き、藤津郡と彼杵郡にまでその力を伸ばしていた。原城が支城として築かれたのもこの頃であったとされる。
 その後も有馬氏の勢力は拡大を続け、十代晴純(代数は南島原市発行「南島原歴史遺産」による)は弟や子等を近隣諸豪の養子に出し、その家を継がせるなどして肥前一帯にその版図を広げた。弟純久が西郷氏(諫早城)を継ぎ、二男純忠が大村氏、三男直員が千々石氏といった具合である。
 天文二十一年(1552)に晴純は隠居して嫡男義貞が継いだ。この頃から龍造寺氏の力が大きくなり、有馬氏の勢いもこれに押されて行くことになる。同時に有馬氏がキリスト教と関わるようになるのもこの頃からである。
 永禄六年(1563)、義貞の弟でもある大村純忠が洗礼を受けてキリシタンとなった。この純忠の影響で義貞は領内に布教することを宣教師たちに認めた。南蛮貿易の誘致が主眼であったと思われるが、晩年には義貞自身も受洗してキリシタンとなった。
 元亀元年(1570)、嫡男義純が当主となったが早逝したため次男晴信が当主となった。わずか四歳であった。晴信が成長する間に有馬領は減退して縮小の一途をたどる。
 天正七年(1579)、有馬領内にキリスト教が広まり、成長した晴信も受洗してキリシタンとなった。そして有馬家の復興も晴信の双肩にかかっていたといえる。
 翌年(1580)、巡察師ヴァリニャーノのすすめで日野江城下にセミナリヨが建設された。国内では安土とここ有馬の二ヵ所である。セミナリヨは修道者育成の場であり、天正十年(1582)には四人の少年たちが欧州へ渡り、ローマ教皇に謁見している。天正遣欧使節といわれるものである。
 天正十二年(1584)、晴信は島津氏と結んで宿敵龍造寺氏を沖田畷に破り、天正十五年(1587)には豊臣秀吉の旗下に参じた。
 日野江城二の丸の発掘調査で石垣や石段の存在、100mに及ぶ階段遺構、金箔瓦などが発見され、晴信が織豊期の城の形態を取入れようとしていたものと考えられている。天正十八年(1590)には屋敷を改築し、文禄四年(1595)に城を訪れたイスパニア商人の記録には屋敷内の絢爛さが記され、茶室も設けられていたという。
 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦時、晴信は西軍から東軍に寝返り、かろうじて所領は安堵された。キリシタン王国と化した有馬の地を晴信は必死で守ろうとしていたといえる。

▲ 日野江城は南九州によく見られる群郭型と呼ばれるもので本丸部分と同規模の曲輪群で構成されている。これは本丸北西側に築かれた曲輪群で階段状の地形が確認できる。
 その後、晴信は原城にも大改築を施し、慶長八年(1603)には居城を原城に移したとも言われている。
 慶長十七年(1612)、晴信の生涯は突如絶たれてしまう。岡本大八事件によって切腹に追い込まれてしまったのである。
 そしてこの年、幕府はキリシタン禁教令を天領に出した。晴信の後を継いだ直純は家康の養女国姫を正室としており、幕府の方針には従順であったようだ。当然、領内のキリシタンを迫害し、洗礼を受けていた八歳と六歳の異母弟まで殺してしまった。島原半島のキリシタンにとっては受難の時代のはじまりであった。
 二年後の慶長十九年(1614)に直純は日向延岡五万三千石に転封となって有馬の地を去った。四百年続いた有馬氏の領国支配はあっけなく終わった。領民の弾圧を徹底できなかったためと言われている。
 元和二年(1616)、新たに入部した松倉重政によって日野江城と原城は破却され、その石材は島原城の築城に利用された。そしてキリシタンの弾圧は苛烈を極め、やがてキリシタン一揆の蜂起、島原の乱へとなってゆくのである。
 ▲ 本丸へ向かう林道脇に建つ石碑。尾藤碑と呼ばれ、島原の乱で負傷して絶命した細川家臣尾藤金左衛門の碑である。
▲ 本丸西側の曲輪。

▲ 本丸最高所には役小角祠が祀られていた。

▲ 昭和57年(1982)の国指定に合わせて建てられた「史跡日野江城跡」の碑。

▲ 日野江城本丸。日野江城の場合、本丸、二の丸、三の丸と広大な範囲に広がっており、それぞれが複数の曲輪群によって構成されている。これは本丸の中心となる曲輪である。

▲ 天正八年(1580)、ヴァリニャーノによって設けられたセミナリヨであったがその後転々として慶長六年(1601)に当地に開かれ、有馬晴信の庇護のもとに栄えた。そして慶長十七年(1612)、晴信の死とともにセミナリヨの歴史も閉じられた。
----備考----
訪問年月日 2011年5月3日
主要参考資料 「日本城郭大系」
 ↑ 「原城と島原の乱」
   「南島原歴史遺産」他

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