鶴亀城
(つるかめじょう)

              長崎県雲仙市国見町神代      


▲ 鶴亀城址二の丸虎口。城主神代氏の最期を思うと、戦国の
厳しさと同時に滅び去った一族の哀しみが感じられてならい。

神代氏、戦国に消ゆ

 鶴亀城は神代城とも呼ばれ、古くから神代(こうじろ)氏の居城であった城である。
 まずは鶴亀、神代ともにその名に興味をそそられるのは私だけではないだろう。本丸跡に掲げられた説明板に神代の名称の由来が記されている。神代とは神の城との意らしい。天孫降臨といえば高千穂であるが、雲仙満明寺縁起によれば初めに雲仙に降臨したということである。それが加無之呂(かむしろ)に至り、八代を経て高千穂に向かったという。加無之呂(神代)が当地のことらしい。もうひとつの由来として景行天皇による熊襲征伐の時に従臣の神代直(あたい/大和時代の臣・連といった姓のひとつ)の一族が当地に残って代々治め、それが地名となった。ということである。
 いずれも歴史時代に入る以前のことである。それが平安時代になると神代荘園の主として神代氏の名が登場するということで現実味を帯びてくる。
 そして南北朝時代に入ると神代兵部大輔貴益という武将が登場する。彼は代々築いてきたこの城を整備し、さらに多くの支城を築いて勢い盛んであったようだ。この時に、空には鶴が舞い、潮の満つる城の下には亀が泳いでいたということで「鶴亀城」と呼ぶようになったということである。しかし、その後の神代氏についての確たる記録はなく、具体的なことは分からないらしい。
 次に、確実に城主としてその名が登場するのは戦国の争乱もたけなわの天正五年(1577)になってからである。城主の名は神代兵部大輔貴茂である。
 この年、肥前制覇を目指す龍造寺隆信は諫早城の西郷氏を伏せしめ、海路神代に上陸した。この際に神代貴茂は龍造寺隆信を迎えて様々に奔走したという。それまで肥前南部を支配してきた有馬氏(日野江城)をこの時点で神代氏は見限ったことになる。
 天正十二年(1584)三月、有馬氏は島津氏と結んでその軍勢を受け入れ、島原沖田畷に龍造寺軍を撃ち破り、隆信を敗死させた。
 神代貴茂は龍造寺軍とともに合戦に臨んだが、島津・有馬連合軍に追われて敗走、鶴亀城に戻って籠城抗戦した。城は海に囲まれているため、敵は干潮時でも泥土に阻まれて容易に攻められなかったようだ。
 やがて籠城する貴茂のもとに有馬方から和議の申し出があった。貴茂もまた単独抗戦には限界があることを知っていたからこの和議に応じることにした。

▲ 二の丸東側には鍋島家陣屋と武家屋敷跡の石塀が残り、国選定の重要伝統的建造物群保存地区となっている。
 和議は鶴亀城の東約4kmの多比良城で行われ、宴席が設けられた。そして貴茂一行の帰途、伏兵がこれを襲って貴茂を討取ってしまったのである。和議は鶴亀城を攻めあぐんだ有馬方の謀計であったのだ。四月六日のこととされている。
 この事実を知った鶴亀城内では残った家臣らが城に火を放ち、ことごとく自刃して果てたといわれる。ここに神代氏は城とともに事実上滅亡したことになる。熊襲征伐時に当地に土着したことが事実とするなら、神代氏はおよそ千五百年の歴史をこの時に閉じたことになる。
 神代氏なき後、神代の地は有馬氏の有するところとなっていたが、天正十五年(1587)の島津征伐の際に神代領三千石は鍋島直茂に与えられた。
 以後、鍋島佐賀藩の飛地として直茂の兄信房を初代とする神代鍋島家として明治に至った。鶴亀城は鍋島氏が整備しようとしたらしいが、一国一城の制によって廃城とされたと言われている。

▲ 本丸と二ノ丸の間は現在道路となっているが、かつての堀切跡である。

▲ 二の丸虎口。

▲ 本丸虎口。

▲ 本丸跡に建てられた神代神社。

▲ 本丸周囲にめぐる土塁。

▲ 神代鍋島家の石塀。独特の形をしている。訪門時、保存修理工事中であったため屋敷の外観を見ることができなかった。平成25年(2013)完了予定とのことである。
----備考----
訪問年月日 2011年5月3日
主要参考資料 「日本城郭大系」他

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