首里城
(しゅりじょう)

                  沖縄県那覇市首里金城町           


▲ 首里城「正殿」。城の中心であるとともに王府としての政治や儀式が執り行われたところである。

琉球国の王城

 首里城の創築年代は不明である。おそらくは沖縄の各地に按司(あじ)と呼ばれる首長が割拠していた時代、もしくはその後の三山時代と呼ばれる北山、中山、南山という沖縄を三分して各王が覇を競った時代、つまり13世紀から14世紀にかけての間に築かれたものであろうとみられている。云うまでもなくその規模は現在見られるような大きなものではなく、記録にも残されない程度のグスク(城)であった。
 この無名の城であった首里城を王城へと発展させたのが後に沖縄を統一した尚氏である。
 尚氏はもとは佐敷(南城市佐敷)の按司として発展した一族であった。思紹(ししょう)の後を継いだ巴志(はし)のとき、海外貿易によって得た富と技術で力を培ったという。
 1406年、日本では室町時代であり、沖縄では三人の王が支配する三山時代であった。この年に巴志は、酒色にふけり悪政をほしいままにする中山王武寧(ぶねい)の居城浦添城(浦添市)を攻め滅ぼした。そして巴志は父思紹を中山の王位につけ、自らは国内平定のために先頭に立って働いた。
 巴志はそれまでの王城であった浦添城を廃して首里城を拡張整備し、ここを新たな王城としたのである。
 1416年、巴志は北山王攀安知(はんあんち)を今帰仁(なきじん)城に攻め滅ぼした。
 1421年、父思紹没して巴志が王位についた。
 続いて1429年、南山王他魯毎(たるみい)を島尻大里城(糸満市)に滅ぼして沖縄を統一した。この翌年、中国の明帝から尚姓を与えられた。これによって思紹、巴志父子によって始まった王統を第一尚氏王統という。
 中国から尚姓を与えられたことからも分かるように、尚氏王統は中国との関係を維持し、交易を重ねることによって栄えた。

 ▲ 久慶門から城壁越しに漏刻門を望む。南国の青い空と白い雲が鮮やかである。
 この中国との交易であるが、これを進貢貿易という。つまり、中国は貢物を持ってくる国、言い換えれば臣下に列した国としか貿易を行わないということなのである。したがって歴代の琉球王は必ず中国皇帝から冊封を受けたのである。
 ちなみに琉球という呼称であるが、これは中国側の呼び方であり、明朝に至って定着したもののようである。
 さて尚巴志によって統一された琉球王国は尚忠、尚思達、尚金福、尚泰久、尚徳と代が続いた。
 1470年、尚徳の死によって尚円が王位についた。尚円は尚巴志の血流ではなかったので、これ以後を第二尚氏王統という。
 尚円の出身は伊是名島(本部半島の北約20`沖)の農家の出で、名を金丸と云った。どのような経緯で金丸が首里城下に移ってきたのかは伝説的でよく分からないが、この当時の王尚泰久に見出されて出世に出世を重ね、王の側近にまで上りつめた。しかし次の王尚徳は無謀にして悪政が多く金丸の諫言も受け入れようとしなかったと云われている。そこで金丸は城を去り、野に隠遁したという。尚徳亡き後の王位継承の会議では尚徳の世子を即位させることなく金丸が重臣らの支持を得て王位に迎えられ、尚円となったということなのである。
 この第二尚氏王統は以後十九代420年の長きにわたり琉球国に君臨してゆくことになる。
 1609年、第二尚氏七代尚寧王のとき、琉球王国は薩摩軍の侵攻を受けた。
 三月四日、樺山久高の率いる三千の薩摩軍は山川港を出発して奄美大島、徳之島を制圧しつつ二十七日に本島本部半島の今帰仁城を攻め落とし、四月一日にはここ首里城を包囲した。鉄砲など戦力に勝る薩摩軍の前には城兵の抵抗も無意味に近く、尚寧王は五日、和睦開城して薩摩の軍門に降ったのである。
 尚寧王は薩摩に連行され、さらに江戸に送られて将軍徳川秀忠に対面させられた。帰国が許されたのは二年後のことであった。王統始まって以来の屈辱的な出来事であったといえよう。
 以後、琉球王府には「江戸上り」と称する慶賀使(将軍の代替わり時)、謝恩使(国王の代替わり時)の江戸派遣が義務付けられた。
 薩摩が王統を滅ぼさずにその存続を認めた背景には琉球と中国との進貢貿易を維持させたかったからである。いうまでもなくその利益を薩摩が吸い取るためである。
 こうなると、これまで海外貿易で潤ってきた王府の財政も苦しくなり、必然的に農民らに重税を課してやり繰りせざるを得なくなってしまうのであった。その率、八公二民であったという。
 それでも琉球王府は日本に敵対するのではなく日中双方に及ぶ交流によって得た文化や技術を独自のものとして開花させていった。
 ▲ 「守礼門」。第二尚氏四代尚清王の世に創建され、昭和33年に復元された。
 
▲ 「歓会門」。首里城の第一の門で正門でもある。第二尚氏三代尚真王の世に創建され、昭和49年に復元された。
 
▲ 「瑞泉門」。城内に至る第二の門である。1470年頃の創建とされ、平成4年に復元された。

▲ 「漏刻門」。城内に至る第三の門。王府の高官もここで駕籠を降りなければならなかつた。平成四年に復元された。

▲ 「奉神門」。ここを抜けると、「御庭(うなー)」と呼ばれる広場に出る。中国紫禁城の様式であろう。平成四年に外観復元された。

▲ 「首里森御嶽(すいむいうたき)」。奉神門前の下之御庭(しちゃぬうなー)にある礼拝所。
 1868年、日本で徳川幕府が倒れ、明治新政府が誕生すると、日本の琉球に対する対応にも変化が表れることになる。
 明治五年(1872)、琉球藩となり、さらに明治八年に新政府は沖縄県設置の方針に従うようにと王府に通達してきた。矢継ぎ早に押し寄せる変革の嵐に王府側は戸惑うばかりであったに違いない。ともかくも王府としては王統の存続を幾度も新政府に嘆願したがついに受け入れられることはなかったのであった。
 明治十二年三月二十七日、琉球処分官松田道之は熊本鎮台の兵隊約四百人と警官百六十人を率いて首里城に乗り込んできた。そして沖縄県設置を強行したのである。王尚泰は東京へ移住させられて王統は廃された。そして王城としての首里城の歴史にも幕が降ろされたのである。
 その後首里城は陸軍省の管轄下に置かれて鎮台兵が駐屯していたが、明治二十九年に撤収した後には荒廃放置状態が続いた。昭和に至り正殿などが国宝の指定を受けて修理された。
 しかし昭和二十年の沖縄戦では日本軍の司令部が城内に置かれ、周辺は陣地化され、米軍による砲爆撃によって首里城は跡形もなく吹き飛んでしまった。
 戦後、守礼門の復元を皮切りに作業が続けられ、現在も復元が進められている。

▲ 正殿中央の唐破風と龍頭棟飾。

▲ 正殿内部2階の「御差床(うさすか)」と呼ばれる国王の玉座。

▲ 「久慶門」。通用門として主に女性が利用した。昭和58年の復元である。

▲ 奉神門まえの下之御庭から西のアザナへと続く歩道。城壁の左側は京の内と呼ばれる祭祀空間となっている。首里城発祥の地ともいわれている。

▲ 西のアザナ(物見台で現在は展望台となっている)から那覇市街を望見。

▲ 「園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)」。国王出御の際には必ずここに寄って往復の安全を祈願したという。
 
▲ 首里城の守礼門の通り沿いには王家の墓所である「玉陵(たまうどぅん)」がある。これはその第一門である。
 
▲ 玉陵の墓室。第二尚氏歴代の陵墓で1501年に創建された。昭和52年に復元修理された。
 
▲ 玉陵資料館前には世界遺産の石碑が建てられている。2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、今帰仁城、勝連城など9ヶ所が登録された。
----備考----
画像の撮影時期*2007/08