二本松城
(にほんまつじょう)

国指定史跡・百名城

                福島県二本松市郭内         


▲ 二本松城は伊達政宗によって畠山氏が追われた後は会津若松城の支城とし
て扱われ続けたが、寛永四年(1627)になって立藩、十万石の府城として明治に
至った。戊辰戦争では降伏することなく激闘の末に落城した城として知られている。
(写真・再建された二本松城箕輪門二階櫓)

城を枕に討死の戊辰戦争

 二本松城は江戸期に白旗ヶ峰の山麓に城館を構築して近代城郭の体裁を整えたが、それまでは白旗ヶ峰山上に築かれた山城であった。

 この山城の二本松城を築いたのは畠山満泰で、嘉吉年間(1441-1444)のことと言われている。この畠山氏が奥州にやってきたのは興国二年(1341/諸説あり)室町幕府より奥州管領として当地に下った畠山高国、国氏父子を初代、二代とするもので満泰はその四代目であった。畠山の名字も満泰の頃には二本松と呼ばれるようになっていた。その後の二本松氏の勢威は振るわず、戦国期の十代義国の頃には会津葦名氏の膝下に属することで命脈を保っていたようだ。

 天正十三年(1585)、十一代義継は伊達輝宗を拉致した事件によって輝宗の嫡男政宗によって討たれてしまい、二本松城は伊達勢の攻囲するところとなってしまった。二本松城内では義継の子国王丸を後嗣として家中一丸となって籠城した。翌天正十四年(1586)になると伊達側の調略によって内応者が出はじめ、籠城十ヵ月にして相馬氏の仲立ちにより開城となった。会津葦名氏のもとに退去した国王丸は義綱と名乗った。その葦名氏も天正十七年(1589)に伊達政宗によって会津黒川城を追われ、義綱はその逃走途中に葦名氏によって殺されてしまった。二本松氏の最期はなんとも哀れとしか言いようがない。

 天正十四年七月に二本松城を接収した伊達政宗は片倉景綱、次いで伊達成実らを二本松城主とした。

 この伊達氏支配時代は長くは続かず、天正十八年(1590)八月には豊臣秀吉による奥州仕置によって二本松城は若松城主となった蒲生氏郷の支配となり、蒲生郷成、町野繁仍、町野幸和が城代を務めた。

 慶長三年(1598)には会津転封となった上杉景勝の支配となり、秋山定綱、下條忠親が城代となった。

 関ヶ原合戦後の慶長六年(1601)には再び蒲生氏が会津藩主となり、寛永四年(1627)に改易となるまで二本松はその支配下に置かれ、梅原弥左衛門、本山安政、同安行、外池良重、門屋助右衛門、同但馬守らが城代をつとめた。

 蒲生氏改易後、会津には加藤嘉明が封ぜられ、与力大名として松下重綱が五万石で二本松城主となり、ここに二本松藩として立藩した。しかし重綱が入部早々に没してしまい、嫡男長綱が後嗣となるも幼少のために翌寛永五年(1628)に三春藩へ移された。入れ替りに三春藩主であった加藤嘉明三男の加藤明利が二本松藩主となった。

 加藤氏時代の藩財政は厳しく、そのために年貢の取立ても苛烈を極めたといわれる。寛永二十年(1643)、明利没。この年、会津藩主加藤明成が改易となり、二本松加藤氏も悪政を理由に改易となった。

 二本松の新しい城主(藩主)となったのは丹羽光重である。白河藩からの移封で十万七千石であった。織田信長の家臣丹羽長秀の嫡孫にあたる。光重は山麓に城郭を整備して山城であった二本松城を近世城郭とした。山麓には霞がかかることが多く、霞ヶ城と呼ばれた。

 この後の二本松藩は丹羽氏が11代続いて廃藩置県に至る。藩財政は江戸期を通じて困窮を極め、藩政改革も上手く行かなかったようだ。

 戊辰戦争時、二本松藩は奥羽列藩の同盟藩として白河など各方面に出兵して西軍(新政府軍)と戦った。明治元年(1868)七月二十八日には板垣退助率いる西軍は本宮(二本松城の南約10km)、小浜(同じく南東約8km)に達し、二本松城攻略に備えるに至った。二本松城内ではこの前夜に徹底抗戦、城を枕に討死と議決され、守備を固めていた。しかし藩兵は激減しており、老人や少年にも出陣が許されたもののその数は五百人程であったという。二十九日、西軍は郭内に迫り激しい乱戦の末に二本松城は自焼、重臣らは切腹して果て、一日にして落城してしまった。この戦いで奮戦した12歳から17歳の62名の少年兵たちのことを後に二本松少年隊と呼ぶようになった。


二本松城本丸。石垣造りに改修されたのは蒲生氏、加藤氏時代であった。平成5年(1993)から2年をかけて全面修復復元工事が施された。

▲昭和57年(1982)に復興された箕輪門と二階の附櫓。

▲二本松城を訪れると真っ先にこの「二本松少年隊」の群像が目に入る。怒涛の薩長軍に対して寡兵を補うべく出陣を許された少年達は落城の瞬間まで懸命に戦い、そして散った。

▲二本松少年隊の説明板。

▲箕輪門前の登城道。

▲「大城代内藤四郎兵衛戦死之地」の碑。箕輪門前に建っている。戊辰戦争時、内藤四郎兵衛正直は二本松城落城に際し、城内で自刃することを潔しとせず、箕輪門を開いて薩長軍の中に突入して斬死したと伝えられている。

▲箕輪門前の石垣。

▲復興された箕輪門。

▲三の丸への虎口。

▲三の丸跡。

▲二本松城は別に霞ヶ城とも呼ばれる。

▲本丸石垣。東日本大震災で損傷箇所があり、立入禁止となっていたためこれより先へは行けなかった。2013年、災害復旧工事が完了した。

▲本丸下南面の大石垣。

▲箕輪門前に立つ案内図。山頂本丸近くまで車で行ける(東日本大震災以後、一時的に立ち入り禁止となっていた)。
----備考----
訪問年月日 2012年5月4日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「武士道・二本松少年隊の記録」他

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