「白布の武将 大谷吉継」 作・ 管理人


五章、 関ヶ原へ 

 敦賀を出発した大谷勢は街道の要衝、疋田に到着し、ここをこの日の野営地とした。
 疋田は古来より街道の要所として城塞が築かれていたところである。北陸から近江へ出る街道はここから三つに分かれている。最も古い街道は琵琶湖岸の海津に出る道で、古くは愛発(あらち)ノ関が設けられていた。他の二つは琵琶湖北岸の塩津に出る道と刀根越えから柳ケ瀬を経て余呉、木之本に至る道である。室町期には越前の守護朝倉氏によってこの城塞は補強、整備され、国境防衛の拠点とされてきた。その後は織田信長の朝倉氏討伐と越前平定によって城塞としての意味を失い、破却、放置されていた。
 吉隆は街道を見下ろすこの城塞跡に本陣を置いて余呉、木之本あたりに滞陣中の脇坂、朽木、京極、小川の各軍に美濃出陣に備えるように指示を発した。
 日が暮れてから嫡男の大学吉勝が興奮した面持ちでこの城塞跡に登ってきた。
 「父上、清州に集まっている関東勢は皆が太閤様子飼いの面々というではありませぬか。これでは豊臣武士の同士討ち合戦で、得するのは内府ばかり。豊臣の恩を忘れて弓を引くとは、福島、細川などの奴輩、いったい何を考えておるやら」
 初秋の夜風が心地よく、吉隆は白布を解いて涼をとっているところであった。日中は残暑が続いているが、夜となると吹く風は確実に冷たくなってきている。
 「吉勝、そういきりたつでない」
 吉隆は興奮して息の荒い息子がかえってほほえましく思えた。
 「人の心は移ろうのが常よ。なればこそ、世は移り変わるものじゃ」
 「豊臣の世も」
 「いずれはな」
 「では、父上はこのいくさ、我らの負けといわれるか」
 「そうはいわぬ。内府の首を討ち取り、太閤様の墓前に供えるまで戦い続けるのが豊臣武士というものだ」
 美濃から佐和山へ、そして敦賀から加賀国境へ出陣して今再び美濃へ向かおうとしている。そうした軍旅のなかで、吉隆は日に日に逞しく武将として成長していくわが息子に感動さえしていた。
 しかし実戦は未だ経験していない。実戦に臨んでは臆することなく立派に戦ってくれることを期待しているが、同時にそれは息子を失ってしまうという悲劇も十分に起こりうることでもある。
 「このいくさは長いいくさになるかも知れぬ」
 「長くなるとは、この一戦では勝敗は決せぬと」
 「うむ。よって、このいくさでわしに万が一のことがあろうと、決して死に急ぐでないぞ」
 吉隆は久方ぶりに父子水入らずで酒を酌み交わし、夜の更けるのも忘れて、若き日の合戦談を息子に聞かせた。

 この日、美濃では東軍先鋒三万四千による大規模な戦闘が開始されていた。
 この東軍は二方面から木曽川を渡河、岐阜城攻略を目指してそれぞれに猛進撃を開始したのである。
 正面軍として、
 福島正則、
 細川忠興、
 加藤嘉明、
 黒田長政、
 藤堂高虎、
 京極高知、
 田中吉政、
 井伊直政、
 本多忠勝
 等一万六千が加々野井から渡河、竹ヶ鼻城を落として岐阜城下に迫った。
 もう一方面は搦手軍として、
 池田輝政、
 浅野幸長、
 山内一豊、
 堀尾忠氏、
 有馬豊氏、
 一柳直盛、
 戸川達安
 等一万八千で河田付近から渡河、織田勢を撃退しながら、これまたその日のうちに岐阜城下に迫った。
 岐阜城への総攻撃は翌未明から開始され、戦いはその日のうちに終わった。
 岐阜城を退去した織田秀信は上加納の円徳寺で剃髪、高野山に送られた。派手好みなところだけが祖父信長に似ていたこの男、五年後に高野山で没してしまう。秀信の死によって信長の嫡系は絶えることになる。
 東軍勢のうち黒田、藤堂、田中の軍勢は岐阜城周辺が大軍で埋め尽くされ、陣取る余地のないことからそのまま西へ進撃を続けて大垣へ向かった。

 三成はこの東軍の予想外の急進撃にあわてた。
 西軍の主力、毛利秀元以下の大軍はようやく伊勢方面の攻略に取り掛かったばかりで、この急場には間に合いそうもない。とりあえず三成は長良川の線で東軍の進撃を食い止めようと、昨日大垣に到着したばかりの小西行長と島津義弘の軍勢と共に大垣城を出撃、沢渡村に本陣を置いた。東軍の渡河地点を墨俣と想定して島津義弘の甥、豊久と兵六百を向かわせた。
 ところが東軍は二里上流の河渡から渡河したため、三成は急遽家臣の舞兵庫、杉江勘兵衛、森九兵衛ら約千を急行させた。
 しかし、わずか千では万余の敵に抗すべくもなく、杉江勘兵衛以下三百が犠牲となり、舞兵庫らはやっとのことで揖斐川河畔まで退却し、さらに大垣城へ向かって敗走を続けたのである。
 三成の東軍の動きにたいする読みが裏目に出て、打つ手のことごとくが後手に回ってしまった。敵は目前の揖斐川に迫りつつあった。
 三成は籠城を覚悟した。伊勢方面の毛利、吉川以下の西軍主力が到着するまでは籠城するほかに手立てはない。小勢で戦ったところで犠牲を増すだけである。
 そう決心すると、
 「大垣城へ戻る」
 と沢渡村の陣をさっさと引き払った。
 この三成の行動に驚いたのが島津維新入道義弘である。これでは墨俣方面にいる豊久以下六百の島津勢が敵中に取り残されることになるのだ。
 「三成は男子にあらず」
 義弘は怒りに震え、手勢を引き連れて豊久らの撤収を援護するために沢渡村の陣を三成とは反対の方向へ駆けた。豊久らの撤収は無事成功し、義弘らが大垣城に戻った頃にはすでにその日も暮れていた。
 この一件以後、島津義弘は三成と意見を交わすことはなくなってしまった。

 この夜、大垣城は宇喜多秀家の軍勢一万七千の到着でにわかに活気づいた。
 三成からの関東勢襲来の急報を受けた秀家は伊勢の戦線を毛利、吉川に任せ、急いで大垣に駆け付けたのである。
 備前岡山五十七万四千石の大名、宇喜多秀家は天正八年の秀吉による中国攻略のとき、父直家が織田と結ぶためにわずか八歳で人質として安土に送られて以来、秀吉の養子となって育った。武に秀でた秀家は十三歳にして秀吉の四国征伐に従軍、以来九州征伐、小田原征伐にと秀吉の天下平定戦の一翼を担って活躍してきた。朝鮮の役では約十六万におよぶ日本軍の総大将をつとめ、豊臣軍団の中核的存在であった。
 今回、西軍に属して参陣することは秀吉の遺臣として、また毛利輝元、上杉景勝、徳川家康、故前田利家と並んで大老職に列する若干二十八歳の青年武将の秀家にとっては当然のことであった。
 この日、岐阜城が落城し、東軍の黒田、藤堂、田中の軍勢は大垣城の北西二里、赤坂の高所を確保した。
 大垣城に到着した宇喜多中納言秀家は養老方面から北上してきたのであるが、その途中で岐阜城の炎上するのを望見し、さらにここへ来て東軍が悠々と大垣城を尻目に移動するのを見て憤慨した。
 「敵軍が城の目の前を過るのを為す術もなく見ているとは、あまりにも情けないではないか」
 秀家は三成に食って掛かった。
 「このまま関東勢を放っておけば、後続の軍勢で膨れ上がり、やがて我らはこの城から身動き出来ぬようになる。今夜にも叩いておかねば、敵を無傷で増長させるばかり。兵はわが手勢にて充分でござれば即刻討って出るべし」
 この時点での大垣城周辺における東西の兵力差は宇喜多勢の到着によって西軍優勢に変わっている。秀家の言うように即座に夜襲を敢行するならば、岐阜から駆け続けて疲労している東軍を撃退することは可能であろう。
 だが、三成はこれを押さえた。
 「備前(秀家)殿、我らが目的は内府(家康)が首。内府にへつらう輩をどれほど叩いたところで無益なことでござる。それより伊勢路の毛利、吉川、小早川、安国寺の軍勢、北国口の大谷、小川、京極、脇坂、赤座、朽木の諸軍勢が美濃に集結するのを待って、一挙に内府と雌雄を決すればよい。さらに毛利輝元公には関ケ原まで軍を進めるように手配してある。したがって夜襲は無用でござる」
 そばにいた小西行長も三成の意見に賛同したので秀家は憤慨しながらも夜襲案を見送らざるをえなかった。
 敵軍と接する最前線にあっては臨機に富む対応、つまり戦術力が指揮官に要求される。そんなところで戦略論をぶっても敵を撃退することはできないのだ。
 三成は戦略家ではありえても戦術家ではなかったといえよう。

 翌未明、疋田の城塞跡に野営した吉隆は急使の到着によって起こされた。
 「関東勢、岐阜城を落として大垣城の北西二里、赤坂に陣取り候う。大谷刑部様以下、美濃境に急がれたし」
 大垣城の三成からの急使である。
 岐阜城がすでに落城して東軍は大垣に達しているという。
 「内府はいかに」
 と吉隆は急使に問うた。
 「はっ、徳川本陣の金扇、馬標は未だ見えませぬ」
 吉隆は、赤坂に達した東軍はそこで家康の到着を待つつもりと判断した。両軍、当分はにらみ合いが続くであろう。
 ともかく戸田勢を先鋒とする大谷勢は余呉、木之本に駐屯中の小川、京極らの軍勢と合流するため疋田を出発した。
 途中、三成からの密書が届いた。
 「明後日、佐和山にて」
 というたった一行の密書であった。
 決戦に備えての打ち合わせを佐和山城で行いたいということか。
 それにしても、
 「苦労なことよ」
 と吉隆は三成の立場を思いやった。
 三成は実質的な総指揮官でありながら小禄であるため、諸将に指示を徹底させるのに余計な気苦労が絶えなかった。大垣に集結した島津、小西、宇喜多、安濃津城を攻撃して伊勢平定中の毛利秀元を主将とする中国勢、そして大坂の毛利輝元と皆、三成以上の石高を有する大大名たちである。必然的に命令ではなく依頼、懇願というかたちにならざるをえない。自分の意見を通そうとすれば諸将の間を自ら駆け回ることもしなくてはならないのだ。もっとも、行政官として立身してきた三成にとっては、自分の足で確認して回らなければ気が済まないということもあったが。
 その後、吉隆は吉勝、頼継の息子たちに兵三千五百を指揮させて北国街道を南下、美濃境の警戒に当たらせ、吉隆自身は手勢六百を率いて佐和山城へ向かった。
 佐和山城には三成の父石田正継を守将に兄の正澄、朝成父子、岳父の宇田頼忠、頼重父子、家臣の河瀬織部、山田上野らと援将の赤松則英、長谷川守知らの総勢二千八百余が守りに就いている。

 大垣城の三成にとっての気掛かりは大坂の毛利輝元が一向に動こうとしないことであった。そこで、赤坂に陣取った東軍の進撃が止まったのをみて、家康到着までしばらくは膠着状態が続くと判断した三成は、輝元の出馬を督促することと、東西決戦の作戦を盟友吉隆と煮詰めるために二十六日深夜、大垣城を密かに出て佐和山城へ向かったのである。
 三成不在中の大垣城の指揮は小西行長に任せ、石田勢の指揮は島左近に執らせた。
 大垣、佐和山間は九里である。馬に鞭打った三成は夜明け前に佐和山城の大手門をくぐった。
 「わざわざおぬしが来なくともよいに」
 とすでに佐和山城で待っていた吉隆は徹夜で駆けて来て疲れ果てている三成を意地らしく思った。
 三成は住み慣れた居城に戻ったせいか、急に美濃戦線での緊張が解れ、かわって疲労が重く全身を包んでゆくのを感じた。しかし、それを払いのけるようにして言った。
 「紀之介、このいくさ、余人には任せられぬのじゃ」
 さっそく、三成は父正継以下、一族家臣、援軍の諸将を集めて軍議を開いた。
 軍議ではここ佐和山城に秀頼と毛利輝元を迎え、西軍の本営にするという方針が三成から明かされた。
 最後に、
 「関東勢が大垣に迫っているいま、すでにここ佐和山も最前線の城である。ご一同、油断あるべからず」
 と三成は締めくくった。
 その後、三成は人払いした天守最上階に吉隆を導いた。
 「決戦場は関ケ原」
 とこのとき三成ははじめて関ケ原での決戦構想を明らかにした。
 吉隆も、
 「関ケ原周辺の有利な地形を先取りして狭隘部に入り込む関東勢を迎え撃つ以外に勝利はなかろう。しかもあそこなら、大坂の後詰めしだいでは長期持久戦も可能じゃ。彼奴等に関ケ原を越えて近江への進撃を許してしまっては決戦を強いる機会はなくなろう」
 と吉隆はみている。
 吉隆の賛同に三成は自信を得た。
 「赤坂布陣の連中は内府の到着を待って大垣城を攻める算段だ。連中にとっては大垣攻めでわしの首を取り、最後の合戦とするつもりであろう。わしは大垣でじっとしておることにする。へたに動けば、内府が恐れをなして出て来ぬとも限らぬでのう」
 「その通り。内府が赤坂に出て来るまでは大垣城を動いてはならぬ。しかし、機を逸すれば大垣城を包囲され、関ケ原へ出ることが出来なくなる。よって、大垣城から関ケ原への移動は内府到着のその夜。関ケ原での戦闘はその翌朝にもはじまるものと覚悟せずばなるまい」
 吉隆は三成の呼吸の荒さから疲労が極限に達していることを感じ取っていた。
 「わしは先に関ケ原へ出て、目立たぬように要所を確保しておく」
 と吉隆は座を立った。
 「佐吉、少し休め。急いで大垣に戻ることもあるまい」
 「うむ、輝元への督促もせねばならぬし、関東、甲信方面の状況もつかんでおきたい。しばらくは佐和山に居るつもりだ」
 開け放たれた天守から見える秋の空はどこまでも深く青く澄んでいた。
 三成は佐和山城に十日間潜伏することになるが、この間幾度も大坂の増田長盛に宛てて毛利輝元の出馬要請の書状を発した。しかしこの書状は途中でことごとく徳川の諜者の手によって奪われ、大坂に達することはなかったのである。

 数日後、吉隆は伏見から駆け付けた平塚為広とその軍勢千を加え、琵琶湖畔に滞陣中の小川、脇坂、赤座、朽木、京極、戸田の諸軍勢一万二千余に関ケ原へ進出する旨を伝えた。
 出発の前日、吉隆は佐和山城の三成を訪ねて、
 「妙な噂を聞いた。小早川に異心あるやもしれぬ」
 と小早川秀秋の動向に注意するように警告した。
 秀秋は伏見城攻略後、毛利秀元を主将とする伊勢平定軍に従って東海道の石部まで軍勢を進めたが、この後そこから動こうとしていなかったのである。八月二十五日に伊勢安濃津城が毛利勢によって落城すると、何を思ったか鈴鹿まで進んで、再び石部に戻っている。こうした不可解な行動は秀秋自身の決心がいまだに大坂と関東のあいだを揺れ動いているからであった。
 秀秋は秀吉の正室高台院(北政所)の兄木下家定の五男で秀吉の養子のひとりに加えられている。本来ならば秀吉の意志を奉じて秀頼を守り立てていくべき立場で、同じく秀吉の養子のひとり宇喜多秀家の場合と同じ立場なのである。
 それが、いまだ去就に迷っているのは高台院の一言が大きく影響していたからである。
 高台院は秀吉の正室でありながら子宝を授かることがなかった。当然、秀頼を産んだ淀殿の権威が強まってくるのは否めない。高台院と淀殿の間に、女としての対立感情がうまれても不自然ではない。秀吉の実子秀頼を豊臣家の後継者として奉ずる三成ら近江出身の奉行衆と淀殿との繋がりは太くならざるをえない。これに対して三成らに反感を抱く加藤清正や福島正則ら尾張出身の武将たちは、合戦に明け暮れていた時代から苦楽を共にしてきた高台院のもとに出入りするようになった。
 こうした両者の関係に付け込んだのが家康である。家康は高台院に接近して機嫌をとった。老獪な家康にとって老女ひとりを手玉に取ることはさしたることではない。高台院はいつしか家康の代弁者となっていたのである。
 秀秋が三成挙兵に際して高台院を訪ねたとき、
 「国替えの一件、内府殿の取り計らいで事無きをえたこと、忘れるでないぞ。内府殿こそ豊家の将来にとって大事なお方じゃ」
 と秀秋は高台院から、家康に恩義があることを忠告されたのである。
 国替えの一件とは、朝鮮の役の際に蔚山に籠城した加藤清正、浅野幸長を救援するために秀秋みずから陣頭に立って出撃し、明・朝鮮軍を撃退して大活躍したことがあるのだが、この秀秋の行動が規律を重視する三成によって軍規違反とされ、秀吉に報告されたのである。立腹した秀吉から筑前、筑後五十二万石から越前北ノ庄十五万石に国替えを命じられたそのことである。しかし、秀吉はこの直後に没し、国替えの一件は家康の配慮によって帳消しになったという経緯がある。
 高台院のいう恩義とはこのときの家康の厚意のことである。
 高台院のもとを辞した秀秋はその足で家康に味方するために伏見城へ入ろうとしたが、城将の鳥居元忠に断られたために身の振り方に困ってしまった。内心は家康に従いたいのであるが、周辺は大坂方の軍兵で充満している。どっちつかずのまま西軍と行動を共にしつつ今日まできてしまっていたのである。
 吉隆の警告にたいして三成は、
 「かたじけない。しかしこのいくさは豊家のためのいくさだ。よも、裏切ることはあるまい」
 と楽観視していた。

 しかし、三成の佐和山滞在中に次々と、その楽観を打ち消すような事態が起きてきた。
 吉隆は九月三日、予定通り九千余を率いて中山道を下り、関ケ原の入口にあたる山中村周辺に布陣した。
 この関ケ原進出に際して木之本に駐屯していた近江大津六万石の京極高次が進出命令を無視して琵琶湖北岸の飯浦から船で居城の大津城へ戻ってしまったのである。
 もともと高次は家康に従うつもりであったのだが、石田勢に街道を押さえられて動くことができずにいたのである。そこへ朽木、脇坂、小川の軍勢が大津へ到着して共に敦賀の大谷吉隆の援軍として、
 「越前へ向かえ」
 との毛利輝元署名の命令書を見せられたのである。いわば、出陣を強要された格好でやむなく二千を率いて木之本に来ていたのであった。
 その後、東軍の進撃が意外に早いのと岐阜落城、河渡の石田勢敗退、大垣籠城と立て続けに西軍の敗報がもたらされた。高次は東軍優勢との思いを強くして戦線離脱の機会をうかがっていたのである。
 大津城に戻った高次は東軍加担の旗幟を鮮明にするとともに籠城戦の態勢をとった。
 このり京極勢離脱にたいして三成は大津城攻撃のために毛利元康(輝元の叔父)を主将とする一万五千を向かわせた。大津城を放置しては佐和山城を突かれる恐れがある。関ケ原の決戦を前にして一万五千の兵を割いたことは想定外の出兵となった。
 この京極高次の離反に続いて、大坂では奉行の増田長盛が家康に内通しているとのうわさがあって、毛利輝元が安心して大坂城を留守にできない状況にあるとの情報が佐和山に流れてきた。輝元自身の心境に何らかの変化が起きたものと思われた。
 未確認情報とはいえ、輝元が動かぬとなれば、佐和山城を西軍の本営として大軍を集結させ、その援護のもとに関ケ原で決戦を試み、さらには関ケ原の地の利を活かして長期持久戦にも備えようとする三成と吉隆の計画は大きく狂うことになる。
 こうした状況に加えて、不可解な行動をとっていた小早川秀秋が突如として一万五千の軍勢とともに佐和山城下の高宮付近に布陣してきたのである。
 事前の連絡なしの到着で、しかも整然と城に対面しての小早川勢の布陣に城内では秀秋の謀反かと騒然となった。
 「金吾め、あのおりに国替えでのうて、切腹にすべきであった」
 三成は憤慨しながらも秀秋宛ての覚書をしたためた。
 一、秀頼公十五歳になるまで関白職と将軍職を任す。
 一、賄い料として播磨一国を加増する。
 一、家臣の稲葉佐渡、平岡石見にそれぞれ十万石を与える。
 一、同じく両名に軍資金として黄金三百枚づつを与える。
 この覚書を大垣からの使者と偽らせて秀秋の陣所へ届けさせた。
 これを見た秀秋は稲葉佐渡守を呼んで、
 「治部少がわしを関白と将軍にすると言うてきたぞ」
 と目を輝かせながら覚書の内容を告げた。
 伏見城攻略後、秀秋はその非を詫びる書を家康に送っていたが、何の返事もないままこの日に至っていた。東西どっちつかずの状態のまま、いらいらした毎日を送っていたのである。佐和山城を前にして布陣して見せたのも攻撃の意志があってのことではなく、そうした行動をとれば家康から何か言ってくるのではないかと考えたからである。
 「佐渡、このまま内府より何の沙汰も来ぬとなれば、わしは治部少に加担せねばならぬの」
 秀秋は重臣の稲葉佐渡守正成の膝元にその覚書を放り投げた。
 正成はそれを押し頂くようにしてから書面に目を通した。
 「殿、この一書によって帰趨を決するのは早計かと思われまする」
 正成の落ち着いた言い回しに、
 「何故じゃ」
 と秀秋は顔色を一変した。秀秋は中途半端な状態に置かれ続けていることの憔悴と不安にさいなまれて苛立っているのだ。
 実は、秀秋をこうした不安定な状態にさせているのは正成の主君操作によるところが大きいのである。正成は秀吉が没するといち早く家康に通じて、三成の挙兵以後は密かに家康との連絡をとり続けていた。最終的には秀秋の優柔不断な性格を利用して西軍内に留まらせ、奇矯な行動をとらせることによって西軍内の動揺をあおり、さらには雌雄を決する土壇場で劇的な寝返りをさせ、徳川時代の幕開けを演じさせるという構想を抱いていたのである。
 ちなみに、正成の妻は三代将軍家光の乳母春日局である。また、子孫は幕府の老中を歴任している。それもこれもこの時の正成の働きにたいする家康の返礼であったといえる。
 稲葉正成は床几の前を落ち着きなく右往左往する秀秋を見上げて言った。
 「関白、将軍職は秀頼公十五の御歳までとありまする。その後はお払い箱との治部少輔殿の底意が、この佐渡には見えまする」
 秀秋は覚書を正成からひったくるようにして再び読み返した。
 「佐渡の言う通りじゃ」
 秀秋は力なく床几に腰を落とした。
 「いましばらく内府からの便りを待つこととしよう」
 「その方が賢明かと存じまする」
 正成は一礼して秀秋のもとを辞した。
 ひとり幕内にとり残された秀秋は行く末の判らぬ不安といい知れぬ孤独感に襲われ、おもわず頭を抱え込んでしまった。
 三成は小早川勢が陣形を縮小して城から遠ざかったのをみて、七日深夜に密かに大垣城へ戻った。
 この日、伊勢平定を終えた毛利秀元、吉川、長宗我部、安国寺、長束の約三万の軍勢が南宮山に到着した。
 毛利輝元の出馬が期待できぬとなれば、この南宮山に到着した軍勢と、すでに大垣に集結している宇喜多、小西、島津、石田の三万余、それに関ケ原西端山中村に布陣した大谷吉隆を主将とする九千余の総勢六万九千余と向背定まらぬ小早川勢一万五千を加えた軍勢で決戦に臨むしかないのだ。

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