(ふるみやじょう)
市指定史跡・百名城
新城市作手清岳
▲ 南側から見た古宮城跡。畑地の向こうの森が城址である。
戦国当時、城の周囲は湿原で、容易に近づけないところであったという。
名城も人なくば、
城にあらず
元亀二年(1571)、東三河山間部を支配する山家三方衆(田峯城の菅沼氏、長篠城の菅沼氏、作手の奥平氏)も武田信玄の圧力には屈するほかなく、各氏ともに人質を出して従うことになった。 武田は三方衆のうち奥平氏の根拠地であるここ作手に城塞を構えて軍兵を駐留させた。その城塞がこの古宮城である。 築城には信玄の重臣馬場美濃守信房があたった。馬場信房が築城に関わったとされる城は遠江や三河にいくつかあるが、いずれも名城と称され、武田流または甲州流築城術による城と喧伝されている。 この古宮城も馬場美濃守の築いた名城として評価されてきた城のひとつである。一見したところ平地のなかに瘤のように出た、ただの円丘なのであるが、なかなかどうして、一歩城址に踏み入ると土塁と濠が縦横に入り組み、複雑な曲輪配置が見てとれる。 この当時の奥平家は五代目貞能が当主であった。貞能は徳川家康に心を寄せていたが、武田の三河進出によって一族内が両派に分かれて紛糾、先代貞勝の判断で武田方に付くことになったのであった。 ところが、元亀四年(1573)四月に武田信玄が死去したことが伝えられるや、貞能は徳川帰参の決意を固め、八月(この年七月に天正と改元)二十日夜に亀山城脱出を強行したのである。 この時、亀山城の不穏な気配が伝わったのであろうか、古宮城の在番甘利晴吉が初鹿野伝右衛門を貞能のもとへ走らせ、貞能夫人を人質として出すようにと命じている。無論、貞能はこれを無視して脱出を強行したのである。 貞能と嫡男貞昌(後に信昌)以下二百余人の脱出に気付いた古宮城の甘利晴吉は直ちに兵四百人を率いて追跡、石堂ヶ根で合戦となった。ところが古宮城の方から鉄砲の乱射する音とともに付近の民家が炎上する様子がうかがえたのである。城が危ういとみた甘利は慌てて兵をまとめ、城へと引き上げたのであった。 翌日、滝山城(岡崎市宮崎)で貞能らは徳川の援軍を得て、反撃に出た。徳川の援将は松平伊忠、本田広孝、本多康重、平岩親吉、内藤家長らであったという。奥平・徳川連合軍は田原坂で約五千の武田勢を撃ち破り、作手へと進んだ。そして古宮城を事も無く落としてしまったのである。「作手村誌」には自焼陥落とあるから、甘利らの武田方が火を放って逃げ落ちたということなのであろう。 いかに名城といえども人を得なければ、単に土を掘り返しただけの土地にすぎないのである。 |
▲ 城址の南側は白鳥神社の境内地となっており、城址への登城口にもなっている。 | ▲ 東本丸の土塁。西側部分にも本丸がある一城別郭式の城である。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2008年4月 |
主要参考資料 | 「日本城郭全集」他 |