田峯城
(だみねじょう)

町指定史跡

北設楽郡設楽町田峯


▲ 道善畑から俯瞰した田峯城址。復元された御殿の屋根(画像中央)が見える。

風雲、田峯城

 戦国期、奥三河の山間部、豊川水系に勢力を拡大した菅沼氏。その一族はそれぞれに居城を構えた地名により田峯菅沼、島田菅沼、長篠菅沼、野田菅沼と呼んだ。田峯城はその菅沼宗家である田峯菅沼の本城である。

 菅沼氏の出自は美濃国土岐氏の庶流ということで諸説一致しているようであるが、系譜や菅沼姓を名乗るようになった経緯などについては各史料によって違いがありよく分からない。どうやら菅沼の地(新城市作手菅沼)を領した土岐定直が地名を姓にしたことから始まったようである。現在、菅沼の地には菅沼城及び菅沼古城と呼ばれる城跡が伝えられている。

 その菅沼氏がここ田峯に移住したのは嘉吉(1441〜1444)の頃で定直の嫡子伊賀守定成であった。現在の田峯観音の地に館を構えたという。定成の弟満成は長篠に居を構えて長篠菅沼(長篠城)の祖となった。後に定成は正室の子定信に田峯の地を譲り、長子ではあるが側室の子であった貞行とともに島田(新城市愛郷)に移った。これにより貞行は島田菅沼(島田城)の祖となったのである。

 田峯菅沼の祖は定成から田峯の地を継いだ信濃守定信になる。定信は田峯を根幹の地とするために文明二年(1470)に本格的な城を築いた。それがこの田峯城なのである。それまでの館のあった場所には高勝寺(田峯観音)を建立、父定成の菩提を弔った。永正四年(1507)九月、定信没。

 二代城主となった大膳太夫定忠の代になると世は戦国乱世の様相を呈しはじめる。戦国大名化する駿河の今川氏親の遠江から三河に達する勢力伸張によって定忠は今川に属することになった。永正十二年には遠江社山城に嫡子定広とともに籠もって今川氏のために活躍している。翌十三年、定忠は武節(豊田市武節町)に進出して城(武節城)を築いた。定忠の三男定則は野田の富永家臣今泉四郎兵衛に懇請されて野田館に迎えられ、野田菅沼の祖となった。

 三代大膳亮定広は父定忠とともに豊川水系に沿って積極的に勢力を拡大した。大谷城(新城市上平井)に嫡子定継、布里城(新城市布里)に三男定直、大野城(新城市大野)に五男定仙を配して郷村の支配を強化した。定広は大谷城で没した。没年は永禄元年(1558)とも永禄八年とも云われている。

 四代大膳亮定継は天文元年(1532)に郷ヶ原(新城市石田)に新城(新城古城)を築いて移った。この頃は今川氏親没後で今川氏の勢力が衰え、替わりに松平清康が三河統一に向かって台頭した時期であった。定継は清康に従った。天文四年(1535)、松平清康が守山に死すると三河は織田氏と今川氏がせめぎ合う戦乱の巷と化してゆく。

 弘治元年(1555)、定継は作手の奥平貞勝とともに今川に叛いて織田に通じた。定継に従ったのは次弟の左衛門次郎と島田の菅沼孫太夫定孝、そして野田菅沼からは当主定村の弟たちから定圓、定自らであった。

 しかし、定継の他の弟たち、定直(布里城)、定氏(大野城)、定仙(井代城)らは今川方に留まる道を選んだ。さらに島田菅沼の定勝、三照父子、野田菅沼(野田城)の定村、定貴、定満の兄弟も今川方に残った。

 弘治二年五月、定継は作手奥平の加勢を得て布里城を襲った。一族が分裂し、そしてついに骨肉相食む戦いが始まったのである。布里城主定直は多勢に無勢とて城を捨てて敗退した。事態を重く見た今川義元は東三河の今川方諸将に作手奥平と田峯菅沼の討伐を命じた。

 八月、今川方の援軍を得た定直は布里城奪還のために軍を進め、定継らの軍を破った。定継以下従う面々は力戦むなしく同月二十一日、布里の黒ヌタというところで自刃して果てた。又定圓は鳳来山麓椿坂で、定自は与良木峠で討たれたと伝えられている。

 無主となった田峯城には勝利した定直らが兵を進めてきた。城には定継の一子小法師丸(三歳)がいた。乳母は小法師丸を抱いて城を抜け出し、山中に隠れた。しかし怯える小法師丸の泣き声で追手に見つかり、乳母はその場で斬られてしまった。だが、さすがに三歳の幼児は斬れなかったようだ。小法師丸は叔父定直の手で育てられることになったのである。

 この戦いで田峯城は田内城主菅沼伊賀守定勝、定清父子の有するものとなったが、後に定直が布里から小法師丸を伴って田峯城に入った。

 永禄四年(1561)、定直は松平元康(徳川家康)に属して遺領を安堵され、小法師丸(八歳)を田峯城主とすることを許された。後見役は定直、家老として城所道寿、城所清蔵、伏木久内尉、今泉孫右衛門道善らが少年城主を支えた。小法師丸は元服して刑部少輔定忠と名乗った。

 十年後の元亀二年(1571)、ついに武田の調略の手が三河に伸びてきた。武田の将秋山信友が兵二千三百を率いて奥三河に進出してきたのである。目的は山家三方衆(田峯菅沼、長篠菅沼、作手奥平)と野田菅沼(野田城)を味方に引き入れることである。

 秋山信友はまず田峯城の家老城所道寿に目を付け、調略に成功した。田峯城では菅沼定直や次席家老の今泉道善らが武田に付くことに反対したが、若き城主定忠は主席家老の城所道寿を信頼しきっていた。定忠は武田に付くことに躊躇はなかった。そして長篠城の菅沼正貞、亀山城(作手)の奥平貞能も武田の威風に従ったのである。

 さらに道寿は当時大野田城に居た菅沼定盈の説得を試みたがこれは失敗した。それならば、ということで奥三河に滞陣していた信玄は山県昌景、相木市兵衛らの軍勢と定忠率いる田峯衆を先手として大野田城を攻めさせた。武田軍迫るの報を受けた定盈は城を捨てて逃走してしまった。

 ともあれ山家三方衆は武田に属することとなり、人質が甲州へ送られることになった。田峯菅沼からは道寿の娘と家老伏木久内の弟が出された。

 翌元亀三年の遠州三方原の合戦には定忠は四十騎を率いて参戦、年が明けての野田城攻めは定忠ら山家三方衆の請願によって行われたと云われている。定盈を生け捕り、浜松にいる三方衆の人質と交換するためにである。

 天正元年(1573)、奥平貞能が徳川方へ寝返ったが定忠と道寿は武田方への忠節を肯んずることはなかった。

 天正三年の長篠合戦には今泉道善らに田峯城を守らせ、城主定忠は道寿とともに兵二百人を率いて参陣した。設楽原の戦いでは山県昌景隊に属して徳川勢と死闘を演じた。しかし山県昌景をはじめ武田の名のある武将が次々と討死、武田の敗色が濃くなった。

 遠征軍の進退には地元武将による道案内は不可欠である。進撃路の案内はもとより、退却に際しても地元武将は自軍の大将を安全な地域に誘導しなければならない。定忠と道寿は御大将武田勝頼の退路を導くために田峯衆を戦場から引き上げさせ、火灯山の麓に向かった。

 定忠は敗走する勝頼一行を先導して田峯城に着いた。ここで勝頼一行に休息してもらうつもりであったのだ。ところが城門は閉ざされたまま開くことはなかった。留守の今泉道善と菅沼定直が長篠に出陣した定忠主従を締め出してしまったのである。道善と定直はかつて田峯の遺領を家康から安堵されたという恩義から武田に属することに反対の立場を崩していなかったのである。

 定忠と道寿ははらわたの煮え返る思いで城から離れ、勝頼一行と敗残の兵を先導して武節城へ向かった。ここで休息をとった後に信州へ入り、勝頼らは甲州へと戻って行った。定忠と道寿は勝頼らと別れる前、伊奈の浪合村で田峯城の反乱組の討伐を勝頼に願い出てその許しを得た。

 まず討伐に先立ち、定忠と道寿は自分たちが自害して果てたという芝居をうった。ご丁寧に遺髪を残して田峯の寺に届け、また埋葬したという土盛りを二つ造って卒塔婆まで立てた。やがて二人が自害したという噂はまことしやかに田峯城に伝わった。定直と道善は厄介者が消えたことでほっと胸を撫で下ろした。

 翌天正四年七月、定忠と道寿は密かに武節城に移り、故郷に戻れずにいた兵を集結させた。盆の時期であった。この期間は、田峯の城兵は交代で帰宅するならわしで、城の警固が手薄となる時期なのである。

 十四日未明、復讐の鬼と化した定忠と道寿の率いる討伐隊はまだ寝静まっている城内に斬り込んだ。寝込みを襲われた城方はまともに応戦する間もなく定直以下老幼男女の別なく皆殺しとなった。その数九十六人。その首は平野の辻に晒された(町史跡・田峯城内乱の首塚)。殊に首謀格の今泉道善は首だけ出して生き埋めにされ、その首は鋸引きされたという(町史跡・道善処刑の地/道善畑)。

 田峯城を血の海にした定忠らは再び信州伊奈に引き揚げた。その後は伊奈支配の下条信氏の配下に加わり、武田方の前衛の一端を担っていたようである。

 天正十年(1582)二月、織田信長による武田征伐が開始され、三月に武田氏は滅亡した(武田勝頼最期の地「景徳院」)。五月、定忠と道寿は伊奈に進出してきた徳川勢に帰参を願い出たが家康の許しが得られず、知久平(飯田市)にて牧野康成により誅されたと云われている。この定忠の死によって菅沼宗家は滅亡した。

 さて、主の居なくなった田峯城である。家康は、終始徳川方として従っていた道目記城主菅沼定利に田峯の遺領を継がせた。定利は田峯城反乱で定忠に討たれた定直の嫡子であったのだ。天正十一年、定利が伊奈知久平城に移った後には廃墟となったと思われる。


本丸大手門と物見台
 ▲ 大手口から本丸を眺める。
▲ 「蔵屋敷」。食物や武器などを保管する蔵があった。奥に見える墓地は「道寿曲輪」と呼ばれ、城所道寿の屋敷跡と云われている。

▲ 「畷曲輪」。狭い曲輪であるところからこの名が付いた。
 ▲ 搦手門。
▲ 平成13年、城址本丸に建て
られた「田峯城供養塔」。

▲ 本丸跡に建つ「田峯城址」の碑。
 ▲ 本丸跡に復元された
書院造りの御殿。

▲ 御殿上段の間には
鎧兜が飾られている。

▲ 物見台から見た御殿車寄の部分。

▲ 城址からは眼下に寒狭川の流れが見える。この流れが大蛇の如く見えることから田峯城のことを別名「蛇頭城(じゃずがじょう)という。

▲今泉道善処刑の地。道善畑と呼ばれている。菅沼定忠と城所道寿は田峯城反乱の首謀者道善に対しては鋸引きの刑をもって復讐した。

▲ 田峯城内乱の首塚。田峯城の西約1.3`の林道脇の山中にある。天正四年、定忠と道寿らが田峯城を襲い、城内にいた老幼男女96人の首をここに晒したと伝えられている。

----備考----
訪問年月日 2007年11月
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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