(のだじょう)
市指定史跡
新城市豊島
▲ 城址北側からの風景である。城は南北に連なる連郭式で、その両側面は切り立っ
た崖であった。中央に見える細流は桑淵と呼ばれる城の東側の崖の名残である。
激闘、戦国野田城
野田館に迎えられて富永氏の遺領(野田郷四ヶ村)を引き継いだ菅沼定則は重臣今泉四郎兵衛(富永旧臣で定則を領主として迎えるために奔走した)の進言により新城の築城を開始した。永正五年(1508)のことである。 この頃の東三河は駿河の今川氏に属していた。今川氏親の軍師伊勢新九郎(後の北条早雲)による驚異的な版図拡大の時期であった。 永正十二年(1515)、大河内貞綱が引馬城(浜松市)に反今川の旗を掲げ、斯波義敦を大将に迎えて挙兵した。この反乱で今川に従う東三の諸氏は遠江に動員され、定則も田峯城の菅沼定広とともに社山城(磐田市)に籠もって大河内勢と戦っている。 翌年正月、新城が完成して定則以下家臣共々それまでの館を引き払い、ここに移った。戦国野田城の歴史の幕開けである。この年八月、今川氏親の出陣により引馬城の大河内攻めが始まった。定則もこの城から出陣して城攻めに加わった。この戦いで定則は先駆けして戦功を上げ、遠江に領地を加えられている。 その後しばらくは今川の勢威下にあって平穏な年が続くかに思えたが長くは続かなかった。今川氏親の死によってその勢いに翳りがさすと、西三河で勢いを得た松平清康が東三河に手を伸ばしてきたのである。 享禄二年(1529)、松平勢は吉田城(牧野信成)、田原城(戸田康光)を攻めて東三の動向を窺った。 「今川の庇護が当てにならぬとあっては松平に従わざるをえまい」 と牛久保城の牧野貞成、亀山城の奥平貞勝、五本松城の西郷正員、田峯城の菅沼定広、川路城の設楽貞長らとともに定則も松平清康に属することになった。 この年の十一月、清康は未だ従おうとしない宇利城の熊谷備中守実長を攻めた。この宇利城攻めにあたって定則は奥平貞勝とともに松平勢の案内役をつとめた。また宇利城内に内応者を置いて味方の勝利に大きく貢献した。いうまでもなくこの戦いでは勲功第一となり宇利城を貰った。 滅亡寸前の富永家に迎えられ、野田菅沼家の初代となった定則もこれで次代に繋げる基盤ができたと思ったことであろう。 その後、清康の不慮の死(森山崩れ)によって西三河では松平家の内紛、そして松平宗家の衰退という状況になってしまった。とはいえ、東三河では比較的平穏な状態が続いたのであろうか、天文六年(1537)定則は禅に帰依して不春居士の号を授けられ、禅三昧の日々を送っていたようである。 天文十三年(1544)、定則は長子定村に家督を譲り、隠居した。所領四千七百貫であったと云われている。定則の没したのは天文十六年であった。 定村に代替わりすると東三の地は大きく揺れた。天文十五年、尾張の織田信秀の脅威に怯える松平広忠の求めに応じた今川義元が積極的に三河進出の軍事行動を取り始めたのである。今川勢は天文十七年までの間に吉田城、田原城、岡崎城をはじめ松平配下の諸城のほとんどをその勢力下におさめた。 野田城の菅沼定村もこの頃に今川方に属したと思われるが、田峯の菅沼定継、作手の奥平貞勝は松平を見限ってすでに織田方に通じていたのである。このため弘治二年(1556)八月、今川は定村に奥平貞勝の雨山砦(岡崎市額田町)攻撃の先鋒命じたのである。 定村は先鋒という気負いもあってか自軍のみで砦を潰そうと今川本隊の到着を待たずに攻めかかったのである(雨山合戦)。結局、定村をはじめ弟の定貴、定満も討死してしまった。その後、雨山砦は今川勢の猛攻によって落とされたが、野田城は深い悲しみに包まれていたに違いない。定村の後を継いだのは弱冠十四歳の定盈である。 永禄三年(1560)の桶狭間合戦で今川義元が敗死すると松平元康(徳川家康)は織田信長と和して三河に独立した。この影響は大きく、東三の諸氏の多くはこぞって元康に従うこととなり、野田城の定盈も元康に属すこととなった。義元の後を継いだ氏真はこれを「三州錯乱」と呼んだ。 翌永禄四年、こうした東三の今川離反の動きに鉄槌を下すべく今川氏真は吉田城の小原鎮実に野田城攻めを命じた。鎮実は城攻めに先立ち、離反諸氏の人質を吉田城外で処刑した。現在もその地は十三本塚として残っている。 七月、小原鎮実は牛久保、二連木等の軍勢を率いて野田城に迫り、飯尾豊前守、小原肥前守を先手として城を包囲した。 定盈は二の丸に西郷孫九郎元正を置いて籠城の態勢をとった。今川方は伊賀者を使って本丸に夜襲をかけてきたが城兵はこれを撃退した。しかし多勢に無勢、定盈は今川の和を受け入れて城を明け渡すことにした。立ち退き先は母の里である西郷の五本松城であった。 それからおよそ一年後の永禄五年六月、遠江見付城の堀越氏が反乱を起こしたために小原鎮実が東三の兵を率いて遠江へ向かった。定盈は手薄となった野田城を夜襲して、城代稲垣氏俊を討取って城奪還を果たした。 その後、今川方の攻撃を幾度か受けたがその都度撃退して何とか城を守り通した。とはいえ度重なる戦闘で城は傷み、大規模な戦闘には耐えられなくなっていた。 戦国の世を生き残るためには堅固な城が不可欠である。定盈は野田城の大修築に踏み切った。工事の間、大野田城を補修してそこを仮の居城とした。永禄六年二月のことであった。 野田城の修築がほぼ完成して定盈らが入城したのは元亀二年十二月であった。その間、定盈らは大野田城から家康の遠江打ち入りの案内役として出陣し、また武田勢の攻撃を受けて再び西郷に退去したりしていた。 元亀三年の秋、武田信玄は大軍を率いて信濃から遠江に進攻した。同時に別働隊の山県昌景の軍勢が三河路を南下した。これに対して野田城には松平忠正、設楽貞通が援将として入城した。とはいえ総勢四百余人に過ぎなかった。 十二月、三方原合戦で家康を敗走させた信玄は年明け早々に三河に進軍して野田城に迫った。野田近辺の社寺を焼き払った武田勢は道目記城を本陣として布陣した。 正月十一日、野田城から物見として城所八良四郎、堀田大進、同備中、小坂弥平次、鳥居半四郎、塩瀬甚兵衛の六騎が道目記城近くに向かった。道目記城の信玄は鉄砲組に発砲を命じ、地理に明るい奥平勢を出撃させた。物見の六騎は馬首を返したが、この時堀田大進が手綱を落としてしまった。大進は槍先で落とした手綱を拾おうとして皆から遅れてしまった。そこへ奥平の家中室金平が槍を振るって挑んできた。やがて組打ちとなり、大進は首を掻かれそうになったその時、これに気付いた備中と弥平次が取って返して金平を討取り、大進を救った。 野田城ではこの六騎を収容すると同時に追いかけてきた武田勢に向けて鉄砲を撃ち、大手に乗り込んできた山家三方衆の兵と白兵戦となった。この戦闘で城兵は敵を多く討取り、菅沼定隆、鳥居半四郎、城所八良四郎らが功名を上げ、塩瀬甚兵衛、菅沼弥太郎らが討死した。この日が野田城と武田軍との戦いのはじまりとなった。 この後、信玄は本陣を道目記城から野田城近くに進め、城を完全に包囲した。そして勝頼の軍勢を織田、徳川の来襲に備えさせた。武田の軍勢その数三万五千とも云われている。武田勢は昼夜の別なく野田城を攻めたて、また自軍の糧食の焚場を設けるなどして長陣の態勢を敷いたのであった。 野田城の定盈は浜松城の家康のもとへ援軍要請の使者を走らせた。 家康は野田城を救うために織田信長に援軍を請うたが応じてもらえなかった。やむを得ず家康は三千余の兵を率いて浜松を出陣した。 家康は野田城の見える笠頭山(豊川の対岸)まで来たが、三方原の敗戦と眼下に雲霞の如く布陣する武田の大軍に圧倒されて兵の士気は上がらず、何も出来ずに吉田城に引き揚げてしまった。 引き続き武田勢による野田城攻撃は執拗に続いたが城方の守りは固く、容易に落ちそうもなかった。そこで信玄は水の手を断つために甲州の金掘り人足を使って水脈を掘り抜いたのである。 水を断たれては、いかに勇敢な城兵たちであっても、最早死を覚悟せざるを得なくなってしまった。 そうした状況下でこんな話が伝わっている。城兵のひとりが武田の陣に向かってこう叫んだ。 「信玄公は仁義の名将と聞いていたが、こんな小城を落とすのに水を断って屈服させようとしている。これ愚将の所業なり、武田家末代までの疵なり。何故槍を合わせて勝負を決しようとしないのか」 すると武田方から、 「水を送るべし、籠城の人数は」 と返してきた。城兵はわずか数百人であったが三千人と答えると飯椀六千杯の水が毎日送られてきたという。さらに銭を椀に入れて返すと水の量が増したというのである。 またこんな話もある。鉄砲の名人である鳥居半四郎が堀の向う側に紙を付けた竹が立ててあるのを見つけた。信玄が夜毎に城内から聞こえる笛の音を聞きにくるという場所の目印ではと思い、日暮れ前に鉄砲の狙いを定めて固定しておいた。この夜、いつものように伊勢山田出身の村松芳休という笛の達者が櫓の上から澄んだ音色を奏で始めた。しばらくすると堀の向う側で人声がしたので半四郎は固定しておいた鉄砲を放った。すると武田方の陣内で動揺するような気配が伝わってきた。 「信玄にあたった」 という話し声も聞こえた。真偽のほどは分からぬが、この時の鉄砲疵がもとで信玄は死に至ったのだとも云われているのである。 さて二月のある日、水に苦しむ城内(今泉四郎兵衛の陣)に矢文が射込まれた。山家三方衆からであった。内容は、城を明け渡して長篠城に移り、我等三方衆の人質と替わってもらいたい、といものであった。つまり、人質交換の質になってくれというのである。もともと三方衆の菅沼家は野田菅沼家の本家筋なのである。定盈は城兵の助命と引換えに開城し、切腹するつもりでいた。しかし三方衆の再三の説得で切腹は思い止まり、人質交換と城兵助命のために開城を決意したのであった。二月十日のこととされている。 定盈は長篠城主菅沼新九郎正貞のもとに預けられ、城内の座敷牢に入れられた。この間に、武田に従えば所領望み次第という誘いがあったという。定盈はこれを断り、約束通りに三月十日、野田の広瀬川原(野田城の南)で人質交換が行われた。 これで野田城は武田方のものとなり、山家三方衆が入った。ところが、武田軍帰国の途次、信州駒場で信玄が没したのである。四月十二日、五十三歳であった。信玄の死は秘されたが、信玄死すの風評は瞬く間に広がったようである。早速家康は長篠城を攻め落としている。 天正二年(1574)四月、三河における武田方の動きが止まった隙に、定盈は家康のもとから野田城に入った。 翌年五月、武田勝頼が動いた。徳川家康に取られた長篠城を囲んだのである。十七日、織田信長と家康は大軍を率いて野田城に到着した。信長と家康は定盈の先の籠城戦の労を称え、翌日には設楽原に布陣したのであった。長篠城を囲んでいた武田勝頼は雌雄を決すべく設楽原に移動、そしてあの長篠の戦いとなったのである。この戦いは織田、徳川の大勝利に終わり、武田は大打撃を蒙った。定盈も本戦に先立つ鳶ヶ巣山の奇襲隊に加わって活躍した。 天正十八年(1590)、家康の関東移封によって定盈も野田城を離れることになり、戦国野田城の歴史も幕を閉じた。 空き城となった野田城は東三河の新領主となった池田輝政によって廃城とされたようである。 |
▲本丸跡の城址碑。碑の前の大きな石は菅沼定盈の乗馬の際の踏み台であったと云われている。 | ▲ 本丸跡の稲荷社。かつての土塁上にある。 |
▲本丸跡の稲荷社の鳥居。 |
▲ 城址説明板と二の丸への入り口。 |
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訪問年月日 | 2007年1月 |
主要参考資料 | 「日本城郭全集」他 |