(おけはざまこせんじょう)
国指定史跡
愛知県豊明市栄町/名古屋市緑区桶狭間北三丁目
▲ 桶狭間の戦いは織田信長がわずか二千の兵で二万五千の大軍を率
いる今川義元の本陣を襲って大将を討ち取るという稀有の大勝利を収め
た戦いとして知られる。この「史蹟桶狭間古戦場」の碑(豊明市栄町)は
昭和13年(1938)に国の史跡に指定されたことにより建てられたものである。
正面奇襲、桶狭間山
桶狭間の合戦はこの前年に岩倉城を落としてどうにか尾張一国をまとめ得た織田信長が駿河・遠江・三河の三国を支配する戦国大名今川義元を討取ったという稀有の大勝利を果たした戦いである。 |
▲「桶狭間古戦場田楽坪」の碑。名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園内に建てられている。ここは今川義元最期の地とされている。おけはざま山はこの公園の東側高台に比定されており、織田勢の奇襲後義元が大高城へ避退しようと西に向かったのであればこの辺りが最期の地となったのかもしれない。中央の低い石碑は昭和初期に付近の鞍流瀬川で発見された「桶狭間古戦場」碑である。文化十三年(1816)五月に建てられたものだが、いつしか打ち捨てられていたものであろう。 |
▲緑区の古戦場公園に建てられた「近世の曙」と題する織田信長(左)と今川義元(右)の銅像。 |
▲ 緑区の「桶狭間古戦場公園」。 | ▲古戦場公園は両軍の進撃ルートなどをジオラマ風に園池で表現されている。 |
▲ 緑区の古戦場公園に建つ「今川義元戦死之地」の碑(左)。 |
▲ 今川家臣瀬名氏俊陣地跡。緑区古戦場公園南の大池東岸にある。瀬名氏俊は二百の兵を率いて先発し、義元本陣の昼食場所を設営したといわれ、その際ここを陣所としたとされる。 |
▲ 緑区の古戦場公園南の大池の南側JA前にある「戦評の松」。合戦時、今川家臣瀬名氏俊がここの松の根元に部将を集め、戦いの評議をしたと伝えられている。本来の松はすでに枯死して無く、現在の松は後に植樹したものである。 |
▲ 豊明市の高徳院境内に建てられた「今川義元公本陣跡」の碑。 |
▲ 豊明市の古戦場跡に建つ「今川治部大輔義元の墓」。明治九年(1876)建立。 |
▲ 豊明市の古戦場跡の西側道路を挟んだ高徳院側に建つ「今川義元仏式の墓碑」。義元公三百回忌(万延元年/1860)に建立された。 |
▲ 豊明市の古戦場跡に建つ「桶狭間古戦場址」の碑。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2012年2月4日 |
主要参考資料 | 「改訂信長公記」 |
↑ | 「戦史ドキュメント桶狭間の戦い」 |
↑ | 「新説・戦乱の日本史10」他 |