(わしづとりで)
国指定史跡
愛知県名古屋市緑区大高町鷲津山
▲ 鷲津砦跡の全容は明確ではないようだが、砦のあったとされる丘陵の
西側部分が鷲津砦公園として、また国指定史跡として保全されている。
今川先鋒隊の勝利
鷲津砦は丸根砦とともに今川方大高城の付城として、織田信長の命により永禄二年(1559)に築かれた。 翌永禄三年(1560)五月十八日、二万五千の大軍を擁した今川義元が尾張に軍を進めて沓掛城(天文二十年/1551以降今川方の城となっていた)に入った。 この日の沓掛城における軍議で鷲津砦と丸根砦の攻略と大高城への兵糧搬入が下知された。これは義元が本陣を沓掛城から大高城へ進めるつもりであったことを示しているようだ。周知のように大高城への兵糧搬入と丸根砦への攻撃は松平元康率いる松平勢千余があたった。そして鷲津砦への攻撃は今川重臣朝比奈備中守泰朝(掛川城主)率いる先鋒隊二千余があたることになった。 朝比奈勢による鷲津砦への攻撃は夜明け前(午前3時)に始まった(小和田哲男著「桶狭間の戦い」)といわれるから、十八日深夜には鷲津砦に対する攻撃準備位置についたものと思われる。 鷲津砦は飯尾近江守定宗を守将として弟隠岐守信宗、織田玄蕃允信平ら四百余が駐屯して大高城の監視にあたっていた。深夜にいたり、朝比奈勢に包囲された砦内では防戦死守の態勢がとられた。丸根砦でとられた出戦策とは対照的であった。 戦いは夜明け前の暗いうちから始まった。砦側は弓鉄砲で必死に防戦する。攻め手の朝比奈勢は新手を繰り出しながら執拗に攻め続けた。 鷲津砦と丸根砦から今川方と戦闘状態に入ったとの報告を受けた清州城の信長は「敦盛」を三度舞い、出陣の法螺貝を吹かせ、兵の揃うのも待たずに城門を駆け出していた。 夜が明けてからも砦の攻防は続いていたが多勢に無勢、やがて守将飯尾定宗以下全滅にいたり朝比奈勢の勝利の凱歌があがった。 同様に松平元康の松平勢による攻撃にさらされていた丸根砦も陥落した。 今川義元がこの二砦陥落の報を受けたのは沓掛城を出陣して大高城方面へ前進中の時であった。先鋒隊の勝利に上機嫌となった義元の本陣はやがて桶狭間にさしかかろうとしていた。 |
▲麓の鷲津砦公園からの登山路。山上の砦跡へと続いている。 |
▲鷲津砦跡の説明板。 |
▲ 砦跡を示す「史蹟鷲津砦址」の碑。 | ▲ 山の麓側に設けられた鷲津砦公園。ここから山上の史跡碑まで登山路が設けられている。 |
▲ 山上側に設けられた鷲津砦公園。史跡碑はこの近くに建てられている。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2011年2月19日 |
主要参考資料 | 「戦史ドキュメント桶狭間の戦い」 |
↑ | 「改訂・信長公記」他 |