(まるねとりで)
国指定史跡
愛知県名古屋市緑区大高町丸根
▲ 丸根砦は大高城の東800m余りの位置にあり、ほぼ円形状の丘に築かれた砦で
ある。丘の最頂部には慰霊のための「丸根砦戦殉難烈士之碑」が建立されている。
運命の一日が
始まる
永禄三年(1560)五月十九日夜明け前、松平元康(徳川家康)以下およそ千の軍勢が大高城を出撃してここ丸根砦に襲いかかった。織田信長の運命を賭けた戦いの一日、つまり駿河・遠江・三河を従える大々名今川義元との対決となる桶狭間の戦いの一日が始まった。 丸根砦は鳴海城とともに今川方の城となっていた大高城に対する付城として鷲津砦とともに築かれたものである。砦には守将の佐久間大学盛重以下、侍大将服部玄蕃ら約四百の織田勢が駐屯して大高城の監視にあたっていた。 戦いの前夜、大高城に松平勢による兵糧入れの作戦が実行されたが、そうした動きは砦から逐一清州城の信長のもとへ報告されていたはずである。この夜、信長は家臣を集めはしたが、軍議らしいこともせずに解散してしまったといわれる。 一方の大高城に兵糧を運び込んだ元康以下の松平勢は休息もそこそこに丸根砦の攻撃準備に取りかかったようだ。小和田哲男氏著「桶狭間の戦い」によれば丸根砦と鷲津砦への攻撃は同時に実施されたと論じられている。そうであれば、夜半過ぎには今川軍団の先鋒部隊である朝比奈泰朝以下二千余が鷲津砦下に集結しつつあったことになろう。 「遅れをとるな」 と松平勢が休む間もなく丸根砦に襲いかかり、同時に朝比奈勢の攻める鷲津砦の方でも戦闘が始まった。 砦では守将の佐久間盛重が清州城へ急使を走らせ、守兵たちには信長本隊に合流するために砦を退去するように命じたという。しかし服部玄蕃らが、 「一戦を遂げるべし」 と主張したため、盛重以下将兵一丸となって砦を打って出た。 籠城するものと思い込んでいた松平勢は勢いよく飛び出してきた佐久間勢の突撃で前軍が崩れ、大草松平正親、能見松平重則、高力重正ら多くの将士が斃れた。 夜が明けてからも一進一退の攻防が続いたが、やがて盛重以下佐久間勢のことごとくが討死して砦は松平勢の占拠するところとなった。 沓掛城から前進中の今川義元は丸根砦陥落の報せに喜んで、 「あっぱれな働きじゃ、元康に大高城を守らせよ」 と下知したといわれる。論功行賞のつもりであったのか。 「信長公記」には、砦を落とした後、松平元康は休息のために大高城に兵馬を戻したとある。 この頃、信長は熱田社で兵をまとめて進撃中であった。信長の目には丸根砦と鷲津砦の陥落を告げる二すじの煙が見えていた。 |
▲砦跡に建つ「史蹟丸根砦址」の碑。 |
▲国史跡丸根砦跡の説明板。 |
▲ 史跡説明板の立つところに頂上に至る路が設けられている。 | ▲ 丘の頂上部に建てられた慰霊碑。 |
▲ 史跡碑の建つ所から周辺を眺めると段地形となっており、曲輪が設けられていたのかもしれない。 |
----備考---- | |
---|---|
訪問年月日 | 2011年2月19日 |
主要参考資料 | 「戦史ドキュメント桶狭間の戦い」 |
↑ | 「改訂・信長公記」他 |