清洲城
(きよすじょう)

愛知県清洲市清洲


▲ 清洲城は天下の名城と称えられるほどの大城郭であったが、名古屋城の完成に
ともなって廃城となった。この天守閣は平成元年(1989)に再建(模擬)されたものである。

尾張、二百年の府城

 清洲城の創築は応永十二年(1405)頃、尾張守護となった斯波義重が守護所下津城の別郭として築いたことに始まると言われており、守護代織田氏が守っていた。

 応仁の戦乱(1467)に乗じ、当時斯波義敏(東軍)を奉じて勢力を拡大しつつあった織田大和守敏定が西軍斯波義廉を奉ずる守護代織田伊勢守敏広の居城下津城を文明八年(1476)に攻め落とした。その後、敏定は幕府から公式に守護代を命ぜられ、清洲城主となった。岩倉城に退いた伊勢守敏広との戦いも繰り返されたが、文明十一年(1479)に分割統治することで決着した。

 以来、清洲城は守護斯波氏の守護所として、また尾張下四郡の守護代織田大和守家の本拠地として機能してゆく。

 永正(1504-21)の頃になると守護代を支える三奉行の力が強くなり、そのなかでも織田弾正忠信定(勝幡城)の勢力が強く、それを引き継いだ信秀の権勢は守護代家を上回るものがあった。

 信秀の後を継いだのが那古野城に居た信長である。天文二十四年(1555)、信長は守護代織田信友を自害に追い込み、清洲城に入城した。清洲城の主になったということは尾張の主になったということを意味するものでもあった。

 永禄三年(1560)、信長は迫り来る今川の大軍を迎え撃つに際し、
「人間五十年、下天の内をくらぶれば…」
 の「敦盛」を舞って清洲城を出陣、桶狭間に向かったという。

 桶狭間に今川義元を討取った信長は天下にその驍名をうたわれることになった。
 その後、信長は美濃攻略に取組み、小牧山城を築いて移り、清洲城には城番が置かれた。

 天正二年(1574)からは信長嫡男の信忠の居城となった。

 天正十年(1582)、本能寺の変。信忠も父信長とともに京に斃れた。

 信長後の体制が清洲城で議された。清洲会議である。この結果、信長の次男信雄が尾張、南伊勢、伊賀合わせて百万石を領することになり、清洲城主となった。この信雄の城主時代に清洲城は大きく変貌する。

 守護所時代の清洲城は一重の堀を廻らしただけの居館を主とした館城であったようで、信長入城後から城郭の整備や城下町の拡張が図られてはいたと思われる。そこへ信雄が大々的に手を加えたのである。城内には天守閣が建造され、城下全体を囲繞する惣構えの外堀が設けられた。中世の城から近世の城へと変貌を遂げたのであった。

 天正十八年(1590)、秀吉と気の合わない信雄は小田原合戦後の行賞を拒否したために改易させられてしまった。信雄の旧領百万石は秀吉の甥秀次に与えられ、清洲城も秀次のものとなった。

 文禄四年(1595)、秀次は秀吉に謀反の嫌疑をかけられて切腹に追い込まれ、一族もろとも粛清を受けて滅んだ。

 清洲城には秀吉の家臣福島正則が二十四万石で城主となった。

 関ヶ原合戦(1600)で東軍徳川方に付いた正則は戦後四十九万八千余石を得て広島城に移った。

 替わって清洲城主となったのは家康の四男忠吉で尾張五十二万石の太守としての入城であった。

 慶長十一年(1606)、忠吉が二十八歳の若さで没したため、家康九男の義直が新たに尾張藩主として清洲城主となった。

 この頃の清洲は経済都市としても大きく発展しており、慶長十二年(1607)の朝鮮通信使をして「天下の名城、関東の巨鎮」と云わしめたという。

 慶長十五年(1610)、徳川家康の命で名古屋城の築城工事が始められた。大坂方との対戦を想定してその大軍を食い止め得る巨大な城が欲しかったのである。清洲城では大軍の進退に不向きであったからであろう。

 名古屋築城と同時に清洲城は破却され、清洲城下の社寺から町屋にいたるまで名古屋城下への移転が進められた。これを「清洲越」という。

 その後、城跡は野となり、やがて田畑となって消え去った。

清洲城本丸跡。五条川西岸の公園内にある。丘の上には信長公の小祠や石碑が建ち並んでいる

▲再建天守。
 ▲ 五条川縁の桜。古城跡は左(西)側で、再建天守は東岸に建てられた。
▲ 清洲公園に建つ桶狭間出陣の織田信長公の銅像。昭和11年(1936)に建てられた。

▲ 五条川西岸に建つ「清洲古城跡」の碑。

▲ 織田信長公を祀る小祠。大戦末期(1945頃)に本丸跡に建てられた。

▲ 弘化年間(1844-48)に本丸跡に建てられた「右大臣織田信長公城跡」の碑。

▲ 文久二年(1862)に本丸跡に建てられた顕彰碑「清洲城墟碑」。

▲ 五条川の大手橋と再建天守。

▲ 再建天守の最上階から古城跡を展望。

▲ 再建天守の東側、清洲城広場に建つ「濃姫」の銅像。

----備考----
訪問年月日 2010年4月3日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「きよす歴史・散策 美濃路」他

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