岩倉城
(いわくらじょう)

市指定史跡

愛知県岩倉市下本町


▲ 岩倉城の城跡は宅地化されてその跡形もない。ただ、かつての本丸跡に石碑が建つのみである。

尾張上四郡、
         織田伊勢守の居城

 織田信長がまだ那古野城に居た当時、尾張国内は上下四郡に分けられて二つの守護代家によって治められていた。

 その上四郡、つまり春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中島郡を治めていたのが、代々伊勢守を称する織田氏であった。また、ここ岩倉城を居城としていたことから岩倉織田氏とも呼ばれる。

 尾張における織田氏のはじまりは、応永七年(1400)に管領斯波氏が尾張守護になったのに伴い守護代となったことによる。織田伊勢守入道常松(郷広)が初代守護代とされている。その後、織田一族の尾張移住が進み、国内各所に城を築いて勢力を拡大していったのである。

 この尾張守護代家が二つに分かれたのは応仁の乱(1467)によってであった。守護斯波氏そのものが東西に分かれたために岩倉織田氏の当主伊勢守敏広(郷広の子か)は西軍方の斯波義兼に属し、一方の東軍方斯波義敏は尾張下四郡で勢力を広げていた織田大和守敏定を味方にした。この両織田家の対立抗争は信長の台頭まで続くことになり、岩倉城が築かれたのもこの頃であったようだ。

 その後、斯波義兼は没落し、敏広も文明十三年(1481)頃に没した。これと対照的に大和守敏定は斯波義敏の子義良を清洲に迎えてその勢威は旭日の勢いがあった。

 岩倉城では敏広没後、子の千代夜叉丸(続柄に関しては諸説あり)が継いだ。寛広である。寛広もまた清洲織田家との抗争を繰り返し、両家はともに衰亡の一途をたどる事になってゆくのである。

 その後、信安(清洲織田氏出身と言われる)が当主となり、清洲織田家中で台頭していた織田信秀の妹を娶るなどして守護代家の立場をかろうじて維持していた。

 弘治二年(1556)に美濃の斉藤道三が子の義龍に敗死すると、信安は義龍と組んで信長に敵対するようになった。同年の末森城の信長の弟信行の反乱に際しても信行に味方したと言われている。

 ところが、信安は嫡男信賢を廃して次男信家を後継としようとしたために、かえって信賢に岩倉城から追い出されることになってしまった。

 後に信安と信家は信長に許され、信安は安土総見寺の住職となり、信家は信長の嫡男信忠に仕えた。信家は天正十年(1582)の武田討伐戦で討死、信安は山内一豊に招かれて土佐に百石を給されたと伝えられている。

 永禄元年(1558)、信賢は浮野合戦で信長と戦ったが大敗した。さらに翌年には岩倉城を囲まれて二、三ヶ月の籠城戦となったが終には降伏して追放処分となった。

 信賢の追放によって守護代伊勢守系岩倉織田氏は滅び、岩倉城も破却された。

 信賢はこの時に自刃したとも、また旧臣山内一豊に招かれて、土佐に二百石を給されたとも伝えられている。

不動尊の隣の「織田伊勢守城址」の石碑は安政七年(1860)に建てられたものである

▲説明板。
 ▲ 城跡に掲げられている岩倉城の復元想像図。二重の堀に囲まれた方形の城であったようだ。よく見ると、本丸内には平屋の居館の他に石垣の上に二重の望楼を備えた大きな建物が描かれている。後の天守にあたるものであろうか。興味のある方は是非、現地で確認していただきたい。(画像が小さくてすみません(^.^))
▲ 城址前の道路を渡ると城跡休憩所と名付けられた小さな一画がある。これはそこから見た城址である。周辺は住宅地となって、かつて城があったことの片鱗すら見られない。

▲ 城址の300mほど北に神明生田神社がある。その境内地に「山内一豊公誕生地」の碑が建っている。一豊の父盛豊は岩倉織田家の家老で、永禄二年(1559)の籠城戦で討死した。一豊十五歳の頃であった。後に一豊は信長に仕え、秀吉のもとで活躍、関ヶ原の戦功により土佐一国の大名となった。

----備考----
訪問年月日 2010年2月20日
主要参考資料 「日本城郭全集」

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