那古野城
(なごやじょう)

愛知県名古屋市中区本丸


▲ 名古屋城二の丸が那古野城跡にあたる。現在はかろうじて
「那古」の二字だけが読み取れる石碑があるだけである。

信長、
         天下布武の起点

 那古野城は織田信長誕生の城であるとともに天下取りへの出発の城であるともいえる。

 もともと那古野城は駿河の今川氏の城で大永元年(1521)に今川氏親によって築かれたと云われている。城名も「柳之丸」と呼ばれ、城というよりは館程度のものであったのであろう。

 氏親は後の北条早雲である伊勢新九郎の軍略により遠江を席捲して三河にまでその勢力を伸張させていた。殊に遠江では尾張守護斯波氏が遠江の守護を兼ねており、両者の間には熾烈な戦いが繰り返されていた。斯波、今川の戦いは永正十三年(1516)、斯波方の大河内氏の引馬城落城をもって、今川氏の勝利で区切りがついた。

 しかし、どのような経緯で氏親が那古野城を築いたのかはよくわからない。また、その城主となったのが氏親の末子氏豊であるとされているが、この人物についても疑問が多い。氏親の末子ということは義元の弟ということである。今川義元が永禄三年(1560)に桶狭間で討死したのが四十二歳とされているから生年は永正十六年(1519)である。その弟ということになると氏豊の生年は大永元年前後ということになろうか。とすると那古野城主となったのは生まれたばかりの赤子であったことになる。

 それから十一年後の享禄五年(1532)三月、この那古野城に目を付け、詭計をもって奪ってしまったのが当時尾張国内で最も勢いのあった勝幡城主織田信秀であった。信長の父である。

 その詭計というのはこうである。

 信秀は氏豊が連歌好きであることに目を付け、那古野城への連歌通いを続けたのである。そのうち、日ごと通い続けるのも大変であるからということで城内に信秀専用の逗留所を設けることが許された。これで、信秀は家来の幾人かを城内に置くことが出来るようになったのである。

 ある夜、信秀は密かに城下に火を放たせ、そのどさくさに紛れて城内に人数を引き入れて城を乗っ取ってしまった。ということである。追い出された氏豊は駿河ではなく京都に逃れたということである。十歳の子供が連歌か、と首をかしげたくもなるが、その才に恵まれていたのであろう。

 天文三年(1534)、信長誕生。この翌年、信秀は那古野城を信長に譲って古渡城に移った。

 天文十五年、信長元服。同十七年、濃姫を迎える。同二十年、信秀没す。同二十一年、聖徳寺にて斉藤道三と会見。この頃から信長は尾張の統一に向けて動き始める。 そして、弘治元年(1555)四月、斯波義銀を擁した信長は清洲城へとその駒を進めたのであった。これが天下布武への第一歩となったといえよう。

 その後、叔父織田信光が那古野城主となったが弘治三年に廃城となった。


那古野城跡(名古屋城二の丸)から名古屋城本丸を望見。右が天守、正面の櫓は東南隅櫓である。

▲同じく二の丸から見た東南隅櫓と天守。(2023)

▲城址碑と説明板。(2023)

▲城址碑。(2023)

----備考----
訪問年月日 2006年4月1日
再訪年月日 2023年2月21日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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