引馬城
(ひくまじょう)

浜松市中央区元城町


城址に建立された元城町東照宮。

今川、斯波、
     争奪の城

 応仁の乱(1467)。細川勝元の東軍十六万、山名宗全の西軍十一万が京の街を舞台に激突した戦いである。その争乱はやがて地方に波及し、当事者同士の利害を絡み合わせた戦いへと発展していくことになった。

 ここ遠江の地も例外ではなかった。守護斯波義廉は西軍であったのに対し、遠江回復を狙う隣国駿河の守護今川義忠は東軍に就いて遠江進出の機会を窺っていたのである。

 文明六年(1474)、今川義忠による見付城(現・磐田市)攻めによって遠江における応仁の乱が、言い換えるならば遠江の戦国時代が本格的にはじまったといえる。この見付城で反今川の旗揚げをしたのが国人狩野宮内少輔で、これに与したのが引馬城の巨海新左衛門尉(三河吉良氏の被官)であった。そしてこれが史料的に引馬城主としての初見であるとされている。

 この狩野氏の乱は今川軍の圧勝に終わり、城主狩野氏は自害、巨海氏も引馬城を追われたのであった。今川義忠は引馬城に飯尾長連を置いて西遠の守りに就かせた。

 その後、本格的に斯波、今川の戦いが各所で起こり、義忠が塩買坂(現・菊川市)で一揆の襲撃を受けて討死するという事態にまでなっている。この時、引馬城主飯尾長連も義忠を守って討死してしまったのである。

 このため引馬城は再び斯波氏の支配下におかれ、大河内備中守貞綱が主となった。引馬城が城としての体裁を整えるのもこの頃からであったと云われている。

 新たに今川の当主となった氏親は叔父早雲(後の北条早雲)とともに、遠江、三河を席捲したが、引馬城の大河内氏の抵抗は根強く、永正十三年(1516)に至ってようやく落とすことができたのである。

 この時、氏親は安部山の金掘りを使って城の水の手を断ったと伝えられている。

 その後、再び飯尾氏が城主となり、賢連、乗連、乗竜と三代続いた。

 栄枯盛衰は世の常、桶狭間合戦以降の今川の衰退は甚だしく、乗竜は今川を見限り、三河の徳川家康に通じようとした。ところが、この一件が露顕して今川氏真の知るところとなり、永禄五年(1562)に兵を向けてきたのである。

 しかし引馬城は容易に落ちず、寄せ手の大将新野左馬助(舟ヶ谷城)が討死するほどの激戦となった。氏真は卑怯にも和睦して乗竜を駿府に呼び寄せて暗殺してしまったのである(飯尾豊前守墓所)。永禄八年(1565)のことであった。

 その後、乗竜の妻お田鶴の方が女城主となり、家老の江馬安芸守と江馬加賀守が城の守りを固めた。しかし、城内は両江馬氏が武田と徳川の二派に分かれて対立、内粉を繰り返し、自滅同然の状態になってしまった。

 永禄十一年、空白と化した引馬城は徳川軍の酒井忠次らによって攻められ、接収されたのである。この戦いでお田鶴の方は二百余の城兵と共に籠城した。落城時、お田鶴の方は緋縅の鎧に白柄のなぎ刀をかざして侍女十八人と共に打って出、壮絶な討死を遂げたと伝えられている(椿姫観音)。

 その後、徳川家康が浜松城を築城すると引馬城跡はその一部となり古城と呼ばれた。
 
 時代は下り、廃藩置県後の明治十九年(1886)、城跡に東照宮が建立された。昭和二十年(1945)、戦災にて焼失。昭和三十三年(1958)、鉄筋コンクリート銅板葺きで再建され、現在に至っている。


▲東照宮入口に建つ城址碑。

▲東照宮境内に建てられた二公像。出世の街浜松の聖地であることをアピールしている。

▲明治19年(1886)に古城跡に創建された元城町東照宮。

▲東照宮境内には土塁が残っていたというが確認することは困難である。

▲東照宮から見た浜松城天守。

▲説明板の縄張図。

▲城址南側の下垂口跡。

▲下垂口から北へ向かう道路。かつての堀跡である。

▲城址北側の元目口跡。背後の森は東照宮のある古城跡である。

▲引馬城主飯尾乗竜の妻お田鶴の方を祀る椿姫観音。

▲女城主となったお田鶴の方は徳川家康に攻められた際に奮戦討死した。戦後、家康はその死を悼み、百本余の椿を植えて供養した。椿姫観音の由来である。



----備考----
訪問年月日 2003年9月28日
再訪年月日 2020年9月5日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「浜松城物語」他