飯尾豊前守墓所
(いのおぶぜんのかみぼしょ)

浜松市中央区成子町


▲飯尾豊前守墓所は引馬城主飯尾氏四代目豊前守連龍の墓である。
永禄八年(1565)、今川氏真の奸計によって連龍は謀殺された。
(写真・飯尾豊前守の五輪塔)

憤怒の討死

浜松市の中心街、国道257号の伝馬町交差点から南へ500mほどのところに成子坂のバス停がある。そのバス停の西100mほどに法華宗の東漸寺がある。この寺の境内に引馬城主(浜松城の前身)であった飯尾豊前守の墓所としての五輪塔が残されている。飯尾豊前守連龍は引馬城を根拠地とした飯尾氏の四代目にあたる。

初代は善左衛門長連である。長連(おさつら)と今川氏との関係が持たれた経緯や時期は分からないが、おそらく応仁・文明の乱(1467-77)の頃に駿河守護今川義忠に招かれて臣下に加わったものと思われる。文明六年(1474)に今川義忠による狩野氏(見付端城/磐田市)討伐があった。この時に義忠は狩野氏に加担した浜松庄の引馬城主巨海新左衛門尉を追い出して飯尾長連を奉行人として引馬城に置いたのである。

ところが文明八年(1476)、東遠の横地氏と勝間田氏が再び狩野氏の城を修築して反今川の旗を翻したのである。今川義忠は再び出陣して横地氏と勝間田氏を滅ぼしてしまった。しかし、この帰りに塩買坂(塩買坂古戦場/菊川市)で義忠は横地・勝間田氏の残党に襲われて戦死してしまう。この時に飯尾長連も従軍しており、義忠とともに防戦の末に討死した。

引馬城には三河国吉良氏の代官として大河内備中守貞綱が入り、城を堅固にしたといわれる。一方、義忠の後を継いだ今川氏親は再び遠江への進出を開始して大河内氏と戦い続け、永正十三年(1516)に引馬城を落城させた。氏親は飯尾長連の子善左衛門賢連を引馬城主とした。

時代は流れて賢連の後を善四郎乗連が継いだ。乗連は今川義元に仕えた。永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長に義元が討たれ、今川勢は総崩れとなった。乗連はこの時に討死したとも言われている(異説あり)。

乗連の後、豊前守連龍が継いだ。当然、連龍も今川家に従い、今川氏真に仕えた。しかし、永禄五年(1562)になると隣国三河では松平(徳川)家康が勢力を伸ばしつつあり、遠江西部の国衆に今川離脱の動きが見られるようになる。これは後に「遠州?劇」と呼ばれ、井伊氏、天野氏、奥山氏そして飯尾氏らが今川に反旗を翻したのである。

永禄七年(1564)、氏真は引馬城に軍勢を送り、激しく攻め立てた。飯尾氏らの防戦も凄まじく、今川方の大将新野左馬之助が討死するほどであった。氏真は一旦兵を退き、翌年(1565)和議(諸説あり)と称して連龍を駿府に呼んだ。連龍はわずかな供回りのみで駿府の二の丸にあった飯尾屋敷に入った。ところが氏真は飯尾屋敷を軍勢で取り囲み連龍らを討取ってしまったのである。卑怯なやり方に憤怒の形相で討死したであろう連龍の姿が偲ばれてならない。

永禄十一年(1568)、引馬城は徳川家康によって落とされた。この際に連龍の後室であったお田鶴の方が徳川勢と戦って壮絶な討死を果たしており、後に家康は塚を築き、椿を植えて弔ったという(椿姫観音)。

現在、東漸寺の連龍の五輪塔の近くに鬼子母神堂が建っている。子宝に恵まれなかった連龍がこの鬼子母神に祈ったところめでたくお田鶴の方が一子を身ごもり、義広が誕生した。そして村人らが大凧をあげてこれを祝ったといい、これが浜松祭りのはじまりとされている。


▲東漸寺の参道入口。

▲東漸寺の本堂。

▲本堂の南側に飯尾豊前守の墓所があり、その隣に鬼子母神の御堂がある。

▲飯尾豊前守の墓所としての五輪塔。

----備考---- 
訪問年月日 2024年8月8日
 主要参考資料 「浜松の史跡」
 「遠江武将物語」他

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