(しょうかいざかこせんじょう)
菊川市高橋
▲塩買坂古戦場は文明八年(1476)に今川義忠が遠江の横地氏・勝間田氏を
討伐して帰陣中に、ここ塩買坂で残党に襲われて戦没したところである。
(写真・正林寺参道入口に建つ古戦場跡を示す石灯籠)
流れ矢ひとつ飛び来りて
菊川市磯部の集落から東へ牧之原台地の新野原に至る坂道を塩買坂と呼ぶ。性海坂とも書かれるため、読みは「しょうかいざか」となっている。かつては相良湊から信州諏訪へと続く塩の道の通過点で秋葉街道とも呼ばれていた。現在では県道や広域農道の整備によって古道の有様も変わっている。 県道69号の磯部交差点から東へ緩やかな坂道を700mほど登って行くと左手に大きな石灯籠が現れる。石灯籠には「開基今川義忠公・古戦場」の文字が刻まれている。今川家六代当主今川義忠が文明八年(1476)にこの地で戦没したことを示している(戦没年には諸説あるが正林寺説明板には文明八年とある)。 応仁・文明の乱(1467-1477)に際して駿河守護今川義忠は将軍足利義政の警護と称して軍勢千人を率いて上洛、花の御所に入って東軍細川勝元のもとへ参陣した。義忠が東軍細川方についたのは西軍山名方の遠江守護斯波義廉に対抗するためであった。この頃、遠江守護奪還は今川家の悲願となっていたのである。翌・応仁二年(1468)、京都における合戦が下火となり、義忠は管領細川勝元の要請を受けて遠江・三河の斯波方を攻略するために駿河へ帰国した。 今川義忠は文明六年(1474)、狩野氏の拠る見付城(見付端城/磐田市)の攻略のために遠江へ出陣した。本来、見付は今川了俊(今川初代範国の次男)の領地でその後裔堀越氏の城地であったのだ。それが遠江守護斯波氏の被官となった狩野氏によって奪われていたのである。城主狩野宮内少輔は引馬城主で三河吉良氏被官の巨海新左衛門尉とともに城を修築して今川との戦いに備えていた。今川義忠は三ヵ月の城攻めの末に落城させた。狩野宮内少輔は自害、巨海新左衛門尉は引馬城を追われた。 文明七年(1475)、斯波義良(義廉の後の遠江守護)は遠江の国人を糾合して小夜の中山で今川勢と戦い、勝利した。見付城は再び斯波氏の城となり、東遠の国人横地氏と勝間田氏が入り、城を修復して今川勢との戦いに備えた。斯波・今川の抗争は一進一退の状況が続いた。 文明八年(1476)四月、今川義忠は久野佐渡守、奥山民部少輔、杉森外記、三浦左衛門、岡部五郎兵衛ら五百余騎を率いて見付城を攻め、今回は七日で落とした。籠城していた横地四郎兵衛秀国(横地城主)と勝間田修理亮(勝間田城主)は討死して果てた。本意を遂げた今川義忠は馬首を返して帰路についた。 横地氏・勝間田氏を滅ぼした今川勢は夜間にもかかわらずに牧之原台地へ上がる塩買坂の古道を進んだ。なぜ東海道ではないのか。という疑問からこの時に今川勢は横地城と勝間田城も攻め落としたのではないか、とも考えられている。ともあれ、帰陣中の今川勢はこの塩買坂で横地氏と勝間田氏の残党による奇襲を受けたのである。 この時の様子を「今川記」が具体的に伝えている。「…夜中の事なれば御供の人々さわぐといえども義忠少しも騒ぎ給はず御馬を立直して自身切て落とし、東西を乗り廻し、下知して一揆(横地・勝間田の残党)の輩、皆追落し討捕給ふ。然といへども何処より来りけん流矢一つ飛来りて大将(義忠)の御わきにのぶかに(深く)立つ。痛手に次第々々に弱り給ふ。其後町家へ入奉り色々に労(いたわ)り申しけれども甲斐なく…」(「遠江史蹟瑣談」より、()内は管理人)。義忠はこの翌朝、戦没した。 合戦の年月や義忠の戦没時の年齢など諸説あるが「駿河今川一族」の著者小和田哲男氏は文明八年(1476)四月六日を戦没とし、享年四十一歳であったとしている。参考までに。 義忠戦没から四十余年の永正十四年(1517)二月、義忠の後を継いだ氏親によって戦没の地である塩買坂に一寺が建立された。国源山昌桂寺である。その後、昌林寺そして正林寺と寺名を改めて現在に至る。境内には義忠の五輪塔と合戦当日、義忠を守って討死した今川家臣十八士を弔う墓碑「今川家臣忠死墓」が江戸時代の天保十一年(1840)に建立されて現在に至っている。十八士の名の全容は分からないが、義忠とともに討死した者として引馬城主を任された飯尾長連や先導役を務めたとされる新野の土豪高橋左近将監(天ヶ谷城)らの名が伝えられている。 |
▲現在の塩買坂ともいえる県道69号。大きな石灯籠の建つところが正林寺への参道入口となっている。 |
▲立派な正林寺山門。 |
▲正林寺の本堂。 |
▲本堂東側の小川を渡ったところに今川家臣の墓がある。 |
▲「今川家臣忠死墓」。飯尾長連衆など十八士が葬られた。碑後の丘形は遺骸を葬った塚であると伝わる。 |
▲本堂西側の墓地の一画に今川義忠公の墓がある。 |
▲義忠公の墓の覆堂。 |
▲覆堂の正面。 |
▲義忠公の墓の一石五輪塔。 |
▲説明板。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2024年7月4日 |
主要参考資料 | 「駿河今川一族」 |
↑ | 「遠江武将物語」 |
↑ | 「遠江史蹟瑣談」他 |