横地城
(よこぢじょう)

国指定史跡

菊川市東横地


▲ 本丸(東の城)跡の城址碑。横地城は別名「金寿(きんす)城」とも呼ばれる。

東遠最古の
      武士団

 横地氏は遠江東部における最古の武士団といえる。その後の横地氏の支族は東遠の各地に拡がり、その土地の国人・土豪としてその名を残している。勝間田氏(勝間田城/牧之原市)、新野氏(新野城/御前崎市)、西郷氏、石谷氏(掛川市)、内田氏(菊川市)、戸塚氏などがそれである。殊に勝間田氏との関係は強く、横地氏草創から滅亡に至るまで常に兄弟の如くに行を共にしている。

 横地氏の始祖家長(家永)の出生についてみてみよう。父は源氏の統領として名高い八幡太郎義家である。義家が永承六年(1051)の前九年の役に際して奥州へ下る途中、見付(磐田市)にて大雨のために二十日ほど滞留した。この間に相良荘司藤原維頼(光頼とも云われる)の娘が義家の寵愛を受けて男子を出生した。この男子が横地太郎家長なのである。家永は義家の長子として生まれたわけであるが庶子であるために京に迎えられることなく横地に居館を構え、小笠・榛原の地を領して源氏の在地勢力の一端を担ったわけである。

 家長の長子頼長は本家を継ぎ、次子は勝間田次郎を名乗って榛原郡勝田庄に居館を構えた。この後横地、勝間田の両氏は子々孫々常に行動を共にして行くのである。

 次いで簡単に横地氏の歴代を俯瞰してみたい。

 三代長宗は源義朝に従い保元の乱に戦功があった。四代長重は頼朝挙兵に応じ、義経軍に属して屋島、壇ノ浦合戦に活躍した。五代長直、六代師重と続き七代師長は蒙古襲来に際して禁裏守護に就いた。

 八代長国の頃は南北朝の争乱期にあたり足利尊氏方に属して赤坂城の楠正成を攻め、また筑紫、湊川にと転戦した。延元二年(1337)には今川範国に従って美濃青野ヶ原に戦った。九代長則も幕府軍に属して南朝方の井伊城を攻めた。十代為長も九州探題今川了俊の軍に属して九州各地を転戦、南朝方菊池氏との戦闘で討死している。

 十一代長連の代となると南北朝の争乱も治まり、次いで幕府内に於ける権力争いが顕在化してくるようになる。長連は山名氏討伐(明徳の乱)の幕府軍に参じて戦功を上げた。十二代長豊も上杉禅秀の乱に出陣、戦功あり。十三代長泰も幕軍に属して足利持氏追討(永享の乱)に加わり、箱根山の戦いで討死した。十四代長秀も代々そうであったように将軍の御供衆であった。奉公衆が国持ち(守護)であり、御供衆はそれに準ずる格付けであった。

 そして横地城最後の城主となったのが十五代四郎兵衛秀国である。世は応仁・文明という戦乱の時代へと移り、戦国の様相が色濃くなりつつあった。

 応仁元年(1467)、秀国は将軍警固の為に上京していた。必然的に将軍義政の花の御所を押えた細川勝元の東軍側に属するかたちとなった。隣国駿河の守護今川義忠も斯波氏(遠江守護)に対抗するために東軍側の陣にあった。後日、血で血を洗う戦いを繰り広げることになる今川義忠とはこの時、同じ陣営にあったのである。

 この頃、遠江では守護斯波氏の後ろ楯を得て狩野氏が見付城(磐田市)を居城として中遠一帯に勢力を広げつつあった。遠江復権をもくろむ今川義忠が幕府に働きかけたのであろう、狩野氏討伐の幕命が下り、文明六年(1474)に見付城の攻防戦が展開された(寛正六年(1465)とも云われているが小和田哲男氏によれば前後の事情からみて文明六年と考えられるとしている)。この戦いには横地秀国も勝間田氏とともに幕府方として今川の陣中にあって奮戦している。攻城戦は八月から十一月にかけて三ヵ月に及び、同二十日に城主狩野宮内少輔が自害して終わった。

 この戦いの結果、見付城には狩野氏によって追われた先の城主堀越範将の子貞延が今川義忠の手によって復帰した。堀越氏は今川了俊の末裔で遠江今川氏の流れを汲む一族である。このことは明らかに今川義忠が中遠の実効支配に乗り出したことを意味するものであった。

 今川の露骨な遠江侵略に危機を感じた秀国は勝間田氏とともに斯波氏に通じて対今川戦の防備を固めた。翌文明七年、堀越軍を小夜の中山に撃ち破り、貞延を討ち取った秀国と勝間田修理亮は見付城を奪取して守りを固めた。大挙して攻め寄せて来るであろう今川軍に備えたのである。

 文明八年、烈火の如く怒る義忠は見付城を昼夜の別なく攻め立てた。前回の城攻めのように三ヵ月も時を費やすつもりはなかった。城は七日目に落ちたというから、その戦闘の激烈さがいかに凄まじいものであったかが窺われる。戦闘は秀国と勝間田修理亮の両人が壮烈な討死を遂げ、城が焼け落ちて終わった。

 落城に際し、一族郎党は四散してそれぞれに落ち延びた。秀国の男子三人も落ち延びた。重勝は三河松平氏に仕えて代を重ね、子孫は徳川家康のもとで姉川合戦等に功をあげ、旗本となっている。十六代目を継いだ藤丸は横地に帰農して先祖の地に住み続けた。そして落城時まだ乳呑児であった元国は追手の急追を振り切って甲斐の武田氏に身を寄せた。子孫は武田氏に仕え、後に徳川家康に召抱えられて旗本となった。

 ともかく、東遠武士団としての横地氏は見付城の戦いで滅び去ったのである。当然、手薄となっていた横地城も今川軍によって焼き払われたことであろう。

 しかし、戦いはこれで終わったわけではなかった。横勝(横地・勝間田)の残党は今川義忠が駿河帰陣のために塩買坂に現れたところを襲ったのである。この不意打ちで義忠は流れ矢を脇に受けて戦死してしまった。

 まさに横勝方が最後に一矢を酬いて戦いの幕を閉じたといえよう。

▲ 金寿の谷と呼ばれる城址南側から見た本丸跡。

▲ 本丸の最東端部。

▲ 本丸北側の井戸曲輪。

▲ 本丸と二の丸は細い尾根道で繋がっており「一騎駆」と呼ばれる。大軍が一度に通過できないようになっているのである。

▲ 本丸と二の丸の中間に位置する曲輪で「中の城」と呼ばれる。

▲ 城兵訓練の場といわれる「金玉落しの谷」。城兵はこの谷に落された金の玉をめぐり、この谷を登り降りして競ったという。

▲ 二の丸(西の城)の横地神社に至る参道。祭神は始祖横地太郎である。

▲ 二の丸の土塁遺構。

▲ 城址西側登山道を登ると藤丸館跡と呼ばれる一画がある。横地落城後に藤丸が館を構えた場所であろう。道の傍らには散在する墓塔を集めた「横地氏一族の墓」がある。

▲ 横地氏の始祖、太郎家長(家永)の供養塔。西側登山口近くにある。平成十六年に現在のように復元整理されたものである。

----備考----
画像の撮影時期*2007/01

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