■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2024

管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の訪問記録です。
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10月31日(木)晴/舟ヶ谷城、左馬武神社(御前崎市)

 御前崎市新野には来歴不明の城跡が点在している。八幡平城、天ヶ谷城、釜原城、舟ヶ谷城である。このうち舟ヶ谷城のみが足を踏み入れてなかったので今回行ってみることにした。

 とはいえ、体力的に無理の利かない身体なので、ほんのとっかかりの1号堀切を確認する程度で引き返した。この城跡には細尾根上に7号堀切まである。残念なことに本曲輪跡は採土のために消滅しているのでかつての城跡の姿をうかがい知ることはできない。

 当然ながら現在の私たちが目にする城跡というのは最終形態の城跡である。したがって時代背景や遺構状況などからそれなりの推定はできる。しかし、資料的な裏付けがなくては確定的なものとはならない。

 この舟ヶ谷城の城主であったであろうされるのがこの土地に名を残す新野左馬助親矩である。新野左馬助は今川家臣で当地の領主であった。左馬助の妹は井伊直盛に嫁いでおり、縁戚にあった。桶狭間で今川義元とともに直盛も討死、その後の直親も謀反の疑いをかけられて氏真に殺された。この時に左馬助は遺児万千代(直政)を匿い養ったことで井伊家の危機を救ったことで知られる。

 新野左馬之助は永禄七年(1564)の引馬城攻めで今川の大将として討死した。その後、地元に葬られて現在では左馬武神社として祀られている。

↑舟ヶ谷城

↑左馬武神社のある丘
10月19日(土)晴/金原明善生家(浜松市)

 金原明善は幕末から明治にかけて活躍した郷土の偉人である。天竜川の治水と上流の治山に私財の全てを投げうち、関連事業を立ち上げるなどして郷土の発展に寄与した人物である。

 現在、浜松市中央区安間町の金原明善生家(築後約200年)が改修され、資料館として公開されている。

 近在の小学校では授業の一環として明善翁の生家を訪れているようだ。

↑金原明善生家
10月12日(土)晴/可睡斎久野城(袋井市)

 秋祭りたけなわの時期となった今日、袋井市の可睡斎へ出掛けた。

 この地域では「袋井北祭り」の最中で可睡斎の門前には近隣の屋台(山車)が三台集結してにぎやかであった。地元可睡の屋台の上には徳川家康と本多平八郎の人形が飾られていたので思わずシャッターを押してしまった。

 さて可睡斎である。総門前には「徳川家康公深きゆかりの禅寺」と刻まれた立派な石柱が建っている。もうこれだけで史跡好きの私は体内の血が騒いでどうしようもなくなるのである。可睡斎の名の由来を知ればなおさらである。

 徳川家康が浜松城主であった時代、幼い頃に世話になった等膳和尚を報恩のために招いたことがある。この時に和尚は居眠りをしてしまった。家康は和尚の親愛の心を悟り「和尚、睡る可し」と言ったという。殺伐とした戦国乱世において、なんとも心温まるはなしではないだろうか。この後、寺号は東陽軒から可睡斎に改められた。

 この可睡斎の前身である東陽軒の開基はこの地の国人領主である久野宗隆で、永正の頃(1504-21)のことである。居城の久野城は可睡斎から車で5分ほどのところである。19年ぶりに寄ってみることにした。

 城址の入口には「日本城郭協会大賞受賞」の幟旗がはためいていた。久野城址保存会の頑張りが賞されたものである。

↑可睡斎 総門前

↑屋台上の徳川家康と本多平八郎

↑久野城 入口
9月24日(火)晴/本多忠勝屋敷作左曲輪(浜松市)

 猛暑が去り、朝晩は涼風が心地よくなった。

 浜松城下東側、現在の中央区田町に遠江分器稲荷神社がある。戦国期、徳川家康が三河から遠江に進出して浜松城を築いて拠点とした当時にこの辺りには武家屋敷が軒を連ねていたらしい。そしてこの稲荷神社の境内は本多忠勝の屋敷の一部であったと見られている。

 現在では市街化が進んで屋敷跡の片鱗もうかがうことはできない。神社の南西角に史跡標柱が立つのみである。

 同様に本多重次の屋敷が浜松城の北西側にあった。重次は「鬼作左」の異名をとる猛将であった。三方ヶ原の戦いで浜松城へ逃げ戻った家康は籠城に備えて兵糧を心配した。重次は「兵糧は十分に蓄えてござる」と答えて家康を安心させたと言われている。後に兵糧を備蓄していたところを作左曲輪と呼ぶようになり、重次がここに屋敷を置くことを許したといわれている。

 現在、浜松市美術館の西側の浜松城公園入口の交番前に本多重次屋敷跡の標柱が立ち、公園入口から少し園内に入ると作左曲輪の石柱が建っている。

↑本多忠勝屋敷

↑作左曲輪
9月5日(木)晴/片瀬城草ヶ谷城(周智郡森町)

 片瀬城は18年ぶりの再訪である。再訪と言っても当時は登城口すら分からず、いや無かったのかもしれない。したがって遠景のみで済ましていた城跡である。ともかく新東名の工事中の時代であった。最近のネット上では勇敢にも踏査されている方が何人かいることがわかったのでその情報をもとに行けるところまで行ってみようと思い立ったしだいである。

 城址の南に八面(やおもて)神社という小社がある。鳥居の前には片瀬城の説明と縄張図の看板が立てられている。この神社の脇を北に向かって緩い坂を登って行く。行く手には墓地が広がっている。その奥の山林が城址と思われる。墓地の所まで登ってみたが、そこから先が分からない。年のせいか、持病を持つ身としては強行突破する気力も体力もないので撤収することにした。

 片瀬城は永禄末期に一宮(森町)の国衆で武田氏に属する武藤氏が徳川勢の来襲に備えて領内各所に築いた城砦群のひとつである。ただし、武藤氏単独で築かれたものではなく、武田氏によって整備され、武田勢が布陣したものとみられている。しかし、武田信玄亡き後、徳川勢に攻められ落城した。武藤氏は甲州へ退去し、後に高天神城に入って徳川勢と戦い、討死した。

 その武藤氏が最初に本拠地としたのが草ヶ谷城である。後に最後の当主となった武藤氏定がここに香勝寺を建立してその南に居館を移したとされる。

↑片瀬城

↑草ヶ谷城 香勝寺
8月8日(木)晴/誕生井戸椿姫観音飯尾豊前守墓所(浜松市)

 相変わらずの猛暑続きである。

 遠州鉄道の遠州病院駅の高架下に誕生井戸が史跡として整備されている。

 誕生井戸とは二代将軍徳川秀忠が誕生したときに使われたという産湯の井戸である。秀忠誕生当時、ここの西側に下屋敷が置かれており、分器屋敷とも呼ばれていた。徳川家康の側室西郷の局がこの屋敷で出産したとされている。

 井戸は明治の頃までは残っていたらしいが市街地化が進み、いつしか無くなってしまったようだ。いまここにある井戸跡は産湯の井戸の伝承を伝えるために後年作られたものである。

 椿姫観音堂は引馬城の東北東440mの位置にある。椿姫とは引馬城主飯尾豊前守連竜の正室のお田鶴の方のことである。永禄八年(1565)、今川氏真は徳川方に付こうとする飯尾連竜を駿府に呼び出して謀殺してしまった。主を失った引馬城ではお田鶴の方が女城主となったが、城内では内紛が絶えず、とうとう徳川家康に攻められてしまう。お田鶴の方は侍女18人とともに打って出て壮絶な討死を果たした。

 戦後、家康はお田鶴の方と侍女らを手厚く葬り、塚を築いた。家康の正室築山御前も塚の周りに椿を百本余り植えて供養した。椿姫の名はここからきている。

 椿姫の夫、飯尾豊前守連竜の墓が市内の成子の東漸寺にある。連竜は桶狭間の戦いの後、今川氏真を見限り、徳川家康に味方することを決めた。永禄五年(1562)、氏真は引馬城を攻め立てたが落とすことは出来なかった。一旦引き揚げた氏真は永禄八年(1565)に和議を結ぶとして豊前守を駿府に呼び出し、謀殺してしまったのである。

 東漸寺は連竜の父乗連開基の飯尾氏の菩提寺なのである。

↑誕生井戸の碑

↑椿姫観音堂

↑飯尾豊前守墓所
7月4日(木)晴/釜原城塩買坂陣場(御前崎市)、塩買坂古戦場(菊川市)

 梅雨の中休み。ということで出掛ける絶好の機会である。とはいえ外は梅雨明け後のような猛暑状態である。静岡県には熱中症警戒アラートが出されている。コンビニで飲み物を買い込み、東名で菊川ICへ向った。

 まず向ったのは御前崎市の新野地区にある釜原城跡である。釜原は「かまっぱら」と読む。近年整備されたらしい訪城者用の駐車場が設けられていた。車から外へ出ると熱気と夏草の匂いが身体を覆う。ペットボトルを腰にぶら下げて城への道を進む。適当に案内板が立てられており迷うことはなさそうである。約10分ほどで山頂の城跡に到着である。

 山頂にはNTTの電話中継塔が建っており、その近くに二の曲輪の標柱が立てられていた。夏草を踏み倒しながら進むと土橋状の所があり、さらに進むと本曲輪跡の標柱が立つ曲輪に出る。

 実はここには17年前に訪れたことがある。当時は二の曲輪と本曲輪ともに茶畑になっていた。したがって農道も確保されており、車で中継塔の所まで上がったことを覚えている。しかし、いつの頃か茶畑も無くなり、人の往来が途絶えたためであろうか道も木々に覆われるようになり、車は通れなくなってしまっている。

 さて釜原城についてである。南北朝期に落城したことが伝えられているのみでその他のことはよく分からない。戦国期には高天神城をめぐる武田と徳川の争いのなかで、この付近には武田方によって改修利用された城跡が点在している。この釜原城も武田方による改修が施されたものと見られている。

 その武田・徳川の抗争期に武田信玄や勝頼が駿河から遠江に駒を進めた際に陣場を構えた場所が塩買坂付近にある。現地に立つ説明板には「この付近武田陣場跡」とあるように明確な遺構が残っている訳ではなさそうである。陣場跡からは遠く高天神城と小笠の山塊が俯瞰できる戦略上の最適地であったとされるが、説明板の辺りからの眺望はよくない。

 この陣場跡の北側に県道69号が東西に通り、正林寺参道の入口がある。ここに「古戦場」と刻まれた大きな石灯篭が建っている。

 古戦場とは文明八年(1476)に今川氏六代当主義忠が遠江の国人である横地、勝間田の両氏を討伐した帰り道、ここ塩買坂で両氏の残党に襲われて落命した戦いの跡ということであろう。

 正林寺境内の墓苑の一画に今川義忠公の墓があり、本堂の西側にはこの時に討死した「今川家臣忠死墓」がある。

↑釜原城 本曲輪

↑二の曲輪

↑武田陣場

↑塩買坂古戦場
4月11日(木)晴/川上城棚草城堤城高田大屋敷(菊川市)

 川上城に関する城史については不明である。城跡は菊川市川上の川上八幡神社の裏山とその北側にかけての丘陵地とされている。

 高天神城をめぐる武田氏と徳川氏の争乱期、武田信玄も武田勝頼も駿河から遠江へ軍を進めるとまず塩買坂に陣取っている。川上城はこの塩買坂の陣場から西へ1.5kmほどの所にある。本軍の先駆けである先鋒部隊の駐屯地になった可能性も考えられよう。

 棚草城のある丘陵の西端に雲林寺の跡があり、その近くに「今川さま」と呼ばれる小祠が祀られている。なかには今川氏真と棚草地域を安堵された朝比奈孫十郎の位牌が祀られている。
 
 氏真がこの地域の農業振興のために孫十郎に用水路掘削の許可状を出したことで農民から両人が祀られることになったのである。暗愚と評されがちな今川氏真であるが、そうとばかりとも言えない名君であったのかも知れない。

 堤城のある地域は下平川と呼ばれ、永正十年(1513)に今川氏親が松井宗能に当地を与えている。この翌年、松井氏は氏親の命により二俣城へ転向して堤城を去った。

 堤城のある下平川の地は依然として二俣城主となった松井氏の所領として続いた。

 元亀、天正の頃になると二俣城を追われた松井氏は下平川に逼塞したようで、東遠州が武田氏の領域に組み込まれると松井氏も武田氏に従った。

 高田大屋敷の遺跡は鎌倉期の地頭御家人内田氏の屋敷跡である。内田荘における内田氏の活動時期は平安末期から南北朝期前半までとされている。基本的には土塁に囲まれた方形居館である。

 中世初期の地頭屋敷を伝える全国的にも類稀なる歴史文化遺産ということで横地氏城館遺跡とともに菊川城館遺跡群として国の史跡に指定された。

↑川上城

↑棚草城

↑堤城

↑高田大屋敷
3月10日(日)晴/渡辺金太夫屋敷渥美源五郎屋敷岩井寺砦(掛川市)

 渡辺氏屋敷は渡辺金太夫照の屋敷跡で、高天神城の東側間近にある。高天神城主小笠原氏の麾下高天神衆のひとりで「姉川の七本槍」に数えられた猛者である。

 天正2年(1574)、武田勝頼の猛攻に耐えられず開城の後は武田氏仕えた。天正10年(1582)、武田氏の滅亡時、渡辺金太夫は信州高遠城で戦死した。現状は溜池(渡辺池)となっている。

 渥美氏屋敷は渥美源五郎勝吉の屋敷跡で、高天神城の至近の位置にある。天正2年(1574)の高天神城開城の後は徳川方へ帰参して大須賀氏に従った。

 徳川家康の関東移封に際しては大須賀氏とともに上総へ移ったが、晩年は当地に隠棲した。

 高天神城の北約4.5kmの山上に真言宗の岩井寺がある。本堂の周囲が曲輪状の高台に囲まれており、堀切と見られる切通もあることから砦跡とされるが、詳細は不明とされる。

 高天神城をめぐる武田氏と徳川氏の抗争期に武田氏による兵火により岩井寺は焼失したという。高天神城の支城群のひとつとみられることから、徳川方のとりでであったものと見られる。

↑渡辺金太夫屋敷

↑渥美源五郎屋敷

↑岩井寺砦