■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2015 管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の探訪記録です。 |
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12月29日(火)晴/五箇篠山城(伊勢) 年末のお疲れ様旅行ということで家内と二人して志摩へ出かけたついでに多気郡多気町の五箇篠山城へ立ち寄った。城めぐりが目的ではないのだが一ヶ所位はいいだろうと予定にいれたのである。 伊勢自動車道勢和多気ICから国道368号を西へ10分ほど車を走らせ、朝柄交差点を南に左折すればすぐに城址登山口へ到着する。登山口には広い駐車場とお手洗が完備されており、車で城めぐりをする者にとっては大変ありがたい。道を挟んで反対側には勢和図書館・郷土資料館がある。年末のためか閉館中で見学は叶わなかったが、まあ仕方がない。登城口となる登山口からは距離250m、比高60mほどである。急傾斜面であるが階段が整備されており、健脚の方であれば10分位で山頂主郭部に到着できる。 城址説明板によれば、この城は鎌倉期に上野国から来住した野呂氏隆が築城して代々居城としていたようである。説明板にはなかったが、この城には戦国期に織田信長によって滅ぼされた北畠氏の再興を担って挙兵した北畠具親が拠ったことで知られている。しかし、籠城の甲斐なく織田信雄の軍勢に攻められてあえなく落城してしまった。現在の城の遺構はこの時のものとされている。 城は東西に細長い独立丘上に築かれ、五つの曲輪を連ねた連郭式山城で各曲輪間は堀切で遮断されている。見学が容易にできるのは最西端の主郭と二重堀切で区切られた二郭までで、木や草が刈られており、遺構地形が把握しやすくなっている。主郭部には低くなっているが土塁が巡らされている。二郭から東側の郭は藪状態である。 主郭からの眺望は素晴らしい。外堀ともいえる櫛田川が眼下を流れ、その向こうには多気の山々が峰を連ねている。再興の夢を果たせなかった具親はどのような思いでこの城を脱出したのであろうか。その後具親は伊賀に落去し、蒲生氏郷が伊勢に入部するとその客分となったがしばらくして病没したとされている。 |
↑五箇篠山城 登城口 ↑主郭 ↑二重堀切 |
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11月7日(土)曇/霧山城(伊勢)、百地砦(伊賀) 伊勢国へ向かうのは今回で5度目になる。本日の目標は北畠氏本拠の山城である霧山城の登山訪城である。 城好きにとっての山城の攻略は平地の近世城郭の訪城以上にワクワクするものである。ただしそれには体力的困難とそれを克服する根性と勇気を必要とする。少し大げさかも知れないが、私にとっての山城攻略とはそういうものなのだ。場所によっては山頂近くまで車で行ける山城も多いので、すべての山城攻略に根性と勇気を要するものではないのは当然のことであるが。 三重県津市美杉町多気の北畠神社に到着して登山を開始したのは午前10時であった。比高250m、距離1,350m、健脚の方なら45分ほどであろうか。 登り始めて10分ほどで北畠氏館詰城跡に出る。現在の北畠神社の位置が平時の館跡であるから、ここは詰城と名付けられている通り、緊急時の避難所的な場所であったのだろうか。北畠神社からの比高は約80mである。 詰城跡からは尾根伝いに急傾斜の登りが続く。途中にも曲輪らしき地形が見られる。傾斜の急な所には階段が整備さいれている。息を整えるために小休止を繰り返しながら登る。黙々と登ることおよそ35分、鐘突堂跡と呼ばれる霧山城の南郭に到着。 国指定の史跡だけあって郭内に生えている草木は少なく、きれいに手入れされている。ここから北西方向に目をやると鞍部を隔てた同高度に主郭が見える。反対側の南東方向には国道368号、かつての伊勢本街道が垣間見える。さて、もう一息である。登ってきた反対側から南郭を降りる。急斜面だ。一旦、鞍部へ降りて再び登りになる。いよいよ主郭である。 設けられた山道を登り切るとそこは主郭と副郭の堀切跡である。まずは副郭の方へ行ってみる。南郭同様きれいに整備されている。郭の北西縁には土塁が巡っている。築城は南北朝時代と言われているが、戦国期にも手が加えられ、城として機能していたのだろう。続いて主郭へと脚を向ける。土塁に囲まれてすり鉢状になっている。最高所には写真で見た立派な城址碑が建っていた。 時計を見ると登り始めて1時間が過ぎていた。きつい登山であったが、城址にたたずむと爽快な気分になるから不思議だ。主郭を一巡した後、名残り惜しいが下山である。下山は小休止の必要はないが、急傾斜を降りるのも転ばぬように気を付けなければならない。約30分で北畠神社の登城口に戻ることができた。 神社の境内地はかつての居館跡である。境内には南朝の花将軍北畠顕家公の像や北畠家一族とその馬前に散った将士を祀る留魂社などが建てられている。 北畠神社から国道368号に戻ると道の駅美杉がある。ここで昼食を済ませ、伊賀の百地砦に寄ってから帰ることにした。 伊賀市喰代の百地氏城跡の案内板に従って車を乗り入れた所が永保寺であった。ここから徒歩で案内板の道を行く。石仏の並ぶ小路を抜けると舗装道路に出る。左に行くと池があり、その反対側が砦跡の入口である。南虎口から主郭内に入ると高い土塁に囲まれていることに圧倒される。主郭内に建てられた城址碑には「伊賀流上忍百地丹波守城趾」と彫られている。 丹波守は天正伊賀の乱の際にこの砦を焼き払って出陣したという。 来年は伊賀の訪城をしたいなと思いつつ帰路についた。 |
↑北畠神社 ↑北畠氏館詰城 ↑南郭・鐘突堂趾 ↑主郭 ↑百地砦 |
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9月5日(土)晴/敏満寺城、彦根城、長浜城、水口城(近江) 夏休みの終わった9月の第1土曜日は、皆さん遠出を控えるようで、高速道路の渋滞に出くわすことがない。遠出の城めぐりには貴重な一日である。しかも、雨続きの空模様であったのが、今日だけは快晴である。前日に急きょ予定を組み、未明出発で近江の城めぐりに出かけた。 岡崎、四日市といつもの渋滞ポイントも滞ることなく快調に車を進めることができた。本日のメインは彦根城である。少し遠回りであるが新名神から草津で名神の上り線へと入り彦根インターを目指した。 彦根インターの手前に多賀サービスエリアがある。ここにはめずらしくサービスエリア内に城跡があるのである。敏満寺城という。そそくさと朝食を済ませるとさっそく城址探索を開始した。 敏満寺城は多賀サービスエリアの南東部に堂舎があった敏満寺の寺院都市を防御するために築かれた城塁とされている。永禄5年(1562)当時、浅井氏の攻勢に対応して築かれ、奮戦空しく焼き討ちに合って落城したものと見られている。 現在はサービスエリア上り線の北側に休憩施設を兼ねたかたちで整備され、土塁の遺構を見ることができる。 ただ悲しいことに土塁のそばに黒いビニールのゴミ袋が積まれてあった。エリア内で出たゴミなのであろうが、それはそれで集積場所を確保すべきではないだろうか。歴史に無関心な者にとっては土塁も単なる土手なのであろう。しかし、かつてこの土塁を盾に命をかけた人々の戦いがあったことくらいは知っておくべきであろう。 多賀サービスエリアを発って彦根インターで高速を降りた。そのまま彦根城には向かわず、まずは彦根駅を目指した。駅前のロータリーに井伊直政公の騎馬像が建っているからである。 さあ、本日のメイン、彦根城である。彦根城は言わずと知れた井伊氏30万石の居城である。 大手前駐車場へ颯爽と車を乗り入れる。時間は9時、駐車場にはまだ2台ほどしか駐車していない。これが昼近くになると満車となり駐車できない車が道路を右往左往することになる。観光客が押し寄せる城の探索は朝一番乗りを心掛けるべきだ。 車を降りてまず目に入るのが半円の内濠に沿って築かれたR形状の石垣である。鉢巻を巻いたように見えることから鉢巻石垣と呼ばれる。 多くの観光客は彦根城博物館のある表門から登城するようだが、私たちは大手門から登城することにした。大手門から大手山道を登り、太鼓丸南の大堀切へ出る。ここから一旦、鐘の丸の曲輪に上がり、木橋を渡って太鼓丸へ入る。橋の手前にお店があり、すべてがひこにゃんグッズであった。 木橋を渡って天秤櫓の門から太鼓丸へ進む。すると前方に本丸東面の石垣が現れる。横矢掛けの付いた石垣である。本丸南面の石垣に沿って太鼓門を入る。本丸への枡形虎口である。 本丸に踏み入ると眼前に国宝の天守が現れる。他の天守よりも飾り破風が多く、幾分ずんぐりとした天守である。さっそく天守内を見学だ。 次に本丸から西の丸へと向かう。多くの観光客は天守を見て戻ってしまうせいか、西の丸へ向かう人はほとんどいない。西の丸の西北端には重文指定の三重櫓が建っているのだ。 西の丸から石垣の大堀切を渡ると出曲輪である。出曲輪から下り坂となり、北へ向かうと観音台と呼ばれる曲輪がある。そしてその先に山崎曲輪がある。観音台は薮化が進んでいるようで踏み入るのは困難なように見えた。 観音台の南側から東へ下って内濠へ出る。彦根城主要部の北側を巡る堀である。ここから堀端を南へ歩く。途中、山麓から山上へ向かって伸びる石垣が木々の間に見える。国内では希少な登り石垣である。この石垣の役目は山城に見られる縦堀と同様に攻め手の山腹移動を困難にするためのものであるらしい。 この登り石垣の先に黒門がある。ここで堀を渡り、楽々園と玄宮園を見学。隠居した殿様の御殿跡である。 ここから再び堀に沿って進むと駐車場と公園がある。ここに大老井伊直弼の像が建っている。尊攘の嵐のなか、開国を強行した直弼であったが、桜田門外に浪士の襲撃を受けて落命したことは周知のことである。 さらに進んで表門口に至り、表御殿跡の彦根城博物館に立ち寄る。博物館で資料を購入した後、佐和口へ向かう。佐和口の多門櫓は堀越しに眺めたい。実に壮観、美麗である。そのまま堀の南沿いにある直弼若き日の住居である埋木舎を見学して再び駐車場へと戻った。時間は11時半である。2時間余り歩き続けで、さすがに疲れてしまった。とはいえ、ここまで来て帰路につくのはもったいない。長浜城へ向かった。 長浜城の訪城は初ではない。以前に2度来ている。しかし天気が悪かったり、時間帯が遅かったりで、いまだにアップできずにいたのである。今日は天気も快晴、時間にもゆとりがある。長浜市の琵琶湖に面した豊公園の駐車場に車を停め、徒歩で湖岸を長浜城歴史博物館へ向かって行く。すると湖岸に突出したところに太閤井跡の石碑が建っている。それを撮影して歴史博物館の方へ向かう。博物館はご存知のように天守風の建物であるが、模擬である。実際の天守跡は博物館の湖岸よりに豊臣秀吉の像が建っているが、そこらしい。 長浜城は小谷城攻めで大功のあった秀吉が築いた城である。当初、今浜という地名であったものを信長の一字を拝借して長浜と改めたという。元和元年(1615)に廃城となったが、石垣や建物などは彦根築城の部材に回されたという。 さて、これで引き上げてもよいのだが日没までにはまだ時間がある。下道を走って甲賀市へ向かった。水口城に寄ってから新名神に乗ることにしたのである。 水口城は三代将軍家光が上洛時の宿所として築かせた城である。しかし使ったのは一度きりで、その後は加藤氏が二万石で封ぜられて水口藩ができた。 この近くにもう一つの水口城がある。水口岡山城と呼ばれる平山城である。豊臣時代に築かれた城で中村一氏や増田長盛、長束正家といった秀吉を支えた重臣たちが城主となった城である。 こちらの方の登城は今日一日の疲労のせいか、山道を登る気になれず次回にまわすことにして素通りしてしまった。やはり年のせいかな。 |
↑敏満寺城 土塁 ↑彦根城 鉢巻石垣 ↑彦根城 天秤櫓 ↑彦根城 天守 ↑彦根城 西の丸三重櫓 ↑彦根城 登り石垣 ↑彦根城 佐和口多門櫓 ↑長浜城 歴史博物館 ↑水口城 |
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8月14日(金)晴/大河原城、船山城、大島城、松岡城、飯田城(南信濃) 昨日は鹿児島帰りの疲れた身体を一日休めたが、今日は南信(長野県南部)の城址めぐりに出かけた。 東名高速から三遠南信道を利用して愛知県の鳳来峡IC、そして国道151号線にて長野県へと入るコースで飯田へと向かった。早朝の山並みには白い霧がたなびいて幻想的である。 飯田市には飯田城があるが、それは後にしてまずは松川町へと車を進めた。そこから県道59号、22号を走って大鹿村へ入る。静かな山間の村である。 大鹿小学校のところから左折してしばらく進むと国重文の福徳寺がある。その向かいに駐車可能な広場があるので車をそこへ入れ、まずは香坂高宗の墓へ徒歩で向かった。地図では道沿いにその場所が表示されているのだが実際には10分ほど歩いた先にあった。香坂高宗は南北朝争乱期に宗良親王をお迎えした勤皇の武士である。 再び駐車位置に戻り、続いて大河原城址へと歩いて向かった。宗良親王をお迎えした香坂高宗の居城跡である。現在は南側を流れる小渋川による浸食によって崩落が進んで城域が狭まっているようである。 城址は畑地の小道を通って行くのであるが、獣除けのネットや電気柵が設置されているので注意が必要だ。当然のように小道は青いネットでふさがれていた。その先に城址碑と説明板が見えているのだがこの状態では近づくこともできない。かといって、ここまで来て引き返すのも癪である。しかし、周りを見渡しても人っ子一人いない。何かあったら自己責任と意を決してネットをくぐり城址碑のある場所へ行った。 ところで、香坂高宗は安全のためにさらに山間奥地に御所を設けて親王の居所とした。林道を車で30分ほど進んだ所にある。御所平と呼ばれている。狭い道なので大きな車は運転に苦労するかもしれない。できれば5ナンバーのコンパクトカー以下の車種の方が良いかもしれない。 大鹿村から再び松川町へ戻る。ここでは船山城と大島城に寄ることにしている。 船山城は平安末期から戦国期に至るまで片切氏の居城であった。天正10年(1582)の織田信長による武田征伐時に落城したとされる。城はこの地域に多く見られる河岸段丘の先端地形を利用して築かれている。城址に向かうには台地上から接近することになるので訪城者にとっては登山の必要がなく、楽々と城攻めできることになる。 船山城の現状はほとんどが果樹園となっており、明確な遺構は乏しいようだ。先端部に向かう本丸と出丸の間の堀切が確認される。また、城址碑の建つ二の丸入口の御射山神社の西側に貯水池があり、かつての堀跡とみられている程度であろうか。 次に向かった大島城はこの地域では遺構の残存度が最も高いのではないだろうか。堀や切岸などは見事なものである。台城公園となって大規模な破壊は阻止されているのでこのまま保存されてゆくのであろうが、公園化のための小破壊も見受けられるので行政には注意を払ってもらいたいものである。 大島城は大島氏の城であったものを武田信玄が接収して大改修を加え、伊那郡経略の拠点とした城である。天正10年の織田軍の侵攻時は武田信廉が城将であったが、大軍の接近に驚いて逃亡したと言われ、城は戦わずして落城したようだ。 大島城から南進して高森町に入る。ここに松岡城がある。ここも段丘先端部を利用した城である。一部畑地となっている部分もあるが、遺構の残存度は良好といえる。各曲輪間の堀も明瞭である。先端の一の曲輪からの眺望は絶景である。南アルプスと呼ばれる明石山脈の山並みが眼前に連なり、眼下には天竜川沿いに発展した街並みが見渡せる。 高森町からさらに南進して飯田市に入る。本日最終の訪城先となる飯田城へと向かった。 城址域に向かう前に移築された八間門を訪ねた。かつて二の丸入口にあったものである。明治の廃城時に払い下げられたものらしい。 さて、飯田城である。築城は室町期に坂西氏が築城したとされる。戦国期には武田信玄の配下となり、改修が加えられた。織田信長の侵攻時には保科正直が城将であったが逃走したために落城、坂西氏も討死にしてしまった。武田氏を滅ぼした信長は飯田城下に武田勝頼、信勝父子の首をさらしたという。その後、織田、徳川、豊臣と支配者が変わり、関ケ原後は小笠原氏、脇坂氏、堀氏が飯田藩主となって明治に至っている。 現在は学校や庁舎、図書館、美術館が建ち並び、宅地化が進んでいる。この城も段丘先端型城郭であるが、都市化のために遺構の殆どは改変を受けて見るべきものはない。 とりあえず美術館の駐車場に車を置き、散策を開始した。図書館横に赤門が保存され、近くに井戸跡がある。水の手御門跡を見ながら本丸跡へと進む。突き当りに鳥居がある。本丸跡に建つ長姫神社である。その先は山伏丸となるがホテルの敷地となってしまっている。 再び美術館へ戻る。ここは二の丸跡なのである。美術館入口に御用水と呼ばれる水路が再現されている。美術館内には飯田城関係の展示があるので入館し、売店で飯田城ガイドブックを購入した。 帰路は中央道、東海環状道、東名を経由して戻った。お盆の中日てあって目立った渋滞もなく帰宅することができた。 |
↑大河原城 ↑御所平 ↑船山城 ↑大島城 ↑大島城 ↑松岡城 ↑松岡城 ↑飯田城 ↑飯田城 御用水跡 |
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8月11日(火)晴/岡城(豊後) 鹿屋にての所用を済ませ、午前中には大隅縦貫道に乗り鹿児島を離れた。今日は大分で一泊して明日帰宅の予定である。 熊本ICで降り、国道を東へと車を進め、阿蘇の北麓を通過して竹田市に入った。大分県竹田市といえば「岡城」である。 岡城の歴史は古い。源平の争乱後、源頼朝と義経が対立した時に豊後武士団の棟梁であった緒方三郎惟栄(これよし)が義経を迎えるために築いたのがはじまりと伝えられている。 南北朝期、大友一族の志賀貞朝が朝地(豊後大野市)から移り、砦を拡張して「岡城」と名付けたと言われる。志賀氏は南朝の臣として活躍した。そして17代260年の間、志賀氏の居城として戦国期に至った。 志賀氏最後の城主親次(ちかよし)は九州制覇をもくろむ島津義弘の大軍を岡城に迎え撃ち、これを退けている。義弘をして「天正の楠木正成」と称賛したという。その後、朝鮮の役で退却した主君大友氏が改易となると志賀氏も流浪の身となってしまった。親次は安芸の太守福島正則のもとに身を寄せて生涯を終えたという。 文禄3年(1594)、岡城に入城したのは中川秀成である。織田信長亡き後、秀吉に仕え賤ヶ岳の戦いで柴田勢の急襲を受けて戦死した中川清秀の次男である。岡城は秀成によって石垣造りの城に改修、拡大され、城下町も整備された。以後、13代続いて明治に至る。 明治に入り岡城は廃城となり、荒廃してゆくのであるが、その朽ち行く岡城の姿から生まれたのが瀧廉太郎の「荒城の月」である。 城好きならば一度は訪れておきたい城である。 |
↑岡城 三の丸石垣 ↑岡城 大手門石垣 ↑岡城 カマボコ型石塁 |
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8月10日(月)晴/祇園之洲砲台(薩摩) 鹿屋(鹿児島県)へ個人的な所用にて出かけた。もちろん、車である。順調に走れば15時間ほどで鹿児島に到着できる。しかし若くはないので途中で休憩や仮眠をとりながら19時間かけて鹿児島入りした。 最近では自動車道が鹿屋市まで延びており、今までのようにフェリーで桜島まで錦江湾を横断する必要も無くなってしまった。それでも、桜島の噴煙を眺めながらのフェリー移動の方が「戻ってきたなぁ」という感慨に浸ることができるというものである。 鹿児島ICを降りて鹿児島市街に入ったのは午前8時半頃である。昼頃のフェリーに乗ればよいと考えていたので港近くの砲台(台場)跡に立ち寄った。薩英戦争(文久3年/1863)の舞台のひとつ祇園之洲砲台である。 現在の祇園之洲砲台跡は公園化され、当時の石塁の一部が残されているに過ぎない。しかし、ここに島津藩の鋳造した大砲が設置されて英国艦隊に打撃を与え、実際に死傷者数としては英国側の方が多かったのである。無論、英国艦隊のアームストロング砲の破壊力の前には敵うべくもなく、砲台は破壊された。砲台の眼前で座礁した英艦に対して成すすべもなかったと言われる。 |
↑祇園之洲砲台跡 ↑海側から見た砲台跡 |
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6月6日(土)晴/鳥羽城、田城城、国府城、波切城、越賀城、五ケ所城、一之瀬城(伊勢・志摩) 志摩、奥伊勢の城址めぐりに出かけた。 出発時は昨夜来の雨が続いていたが、前日の天気予報通り、伊勢に入ると青空がまぶしいほどの快晴となった。伊勢方面の訪城は今回で4度目となり、志摩国及び伊勢南部に足を伸ばした。 週末の渋滞を予想していたのだが、何事も無く順調に高速道を進めて鳥羽に到着したのはまだ8時前であった。本日最初の訪城先は九鬼水軍の城であった鳥羽城である。 鳥羽城は元々当地の土豪であった橘氏の城であったものを文禄の役から凱旋した九鬼嘉隆が居城として改修した城である。当時、嘉隆は日本水軍の長として活躍しており、その地位に相応しい城を築きたかったに違いない。城の大手口も水軍城らしく海側に設けられていた。 私たちは近鉄中之郷駅西側のコインパーキングに駐車して散策を開始した。城山の南側から西側に歩を進めて登城開始だ。坂道を登り始めて目につくのが黒ずんだ鉄筋コンクリート造りの建物である。現在では廃校となった市立鳥羽小学校の校舎である。昭和4年(1929)の建設ということで国登録の文化財となっている。この校舎の西側から本丸跡へと設けられた階段を上がって行くのだが、周辺には野面積みの石垣が残されている。 本丸跡からの眺望はよく、波静かな鳥羽港の全体が見渡せる。本丸から北側の城山公園へと下る。途中の本丸石垣は城内で最も良好に残っている部分であるようだ。北郭とも呼べる公園から西側下に近年整備された三之丸跡が見える。ここは鳥羽城への玄関口・三之丸広場として近年整備された所である。入口には九鬼氏の左三つ巴の紋が大きく染められた白布が張られている。 1時間ほどで鳥羽城の散策を終え、国道167号を4kmほど南下した。ここには九鬼嘉隆の祖父泰隆が波切城から進出して当地に城を築いたという田城城がある。 田城城には嘉隆の兄浄隆が城主となって近隣に覇を唱えようとしていた。ところが相互不可侵を旨とする志摩土豪蓮(志摩七党)の反感を買い、攻撃の的とされたのである。北畠氏の援軍を得て勢いに乗る連合軍を相手に浄隆は城に籠って果敢に戦った。ところが籠城戦の最中に浄隆が急死してまったのである。嘉隆は浄隆の遺児澄隆を救援するために波切城から駆け付けたが敵わずに落城してしまった。後に、嘉隆は織田信長に仕え、水軍を率いて志摩に攻め込み土豪達を平らげ、さらに澄隆を暗殺して田城城に入城したとされる。 現在の田城城址には暗殺されたという澄隆の怨霊を鎮めるための九鬼岩倉神社が建立されている。国道沿いの鳥居脇に史跡指定の標柱と説明板が立てられていた。 田城城からさらに20kmほど南下、的矢湾に突き出た半島の付け根に築かれた国府城へ向かった。 国府城主は三浦新介という武士で、戦国期に北畠氏の麾下にあった。新介は北条早雲に滅ぼされた相模の名族三浦氏の流れで、最後の当主三浦道寸義同の末子とされている。対北条戦で敗色の濃くなった頃であろうか、「故あって「うつろ船」に乗せられ、海に流され、国府岩本海岸に漂着」と現地説明板にある。その後、九鬼嘉隆の志摩平定に際して臣従を拒み、何処かへ立ち去ったと言われている。 現在の城址には三浦稲荷大明神が祀られている。高台の本曲輪からは真っ青な志摩の海が見渡せた。 国府城からさらに10kmほど南下すると熊野灘と遠州灘を画する大王崎である。この岬に波切城がある。 波切城は海賊九鬼氏飛躍の城ともいえる。南北朝末期に尾鷲から当地を切り取り、岬の沖を通過する船から通行税を徴収していたという。戦国期に入ると本城を田城城に移し六代目浄隆が当主となり、波切城は弟の嘉隆が城主となった。田城城が志摩七党によって落城すると波切城も持ち堪えられず、嘉隆は尾張の信長を頼って臣従した。その後、織田水軍の将となった嘉隆は信長の伊勢平定に合わせて志摩を平定したことは先に述べた通りである。 大王崎灯台は観光地であるから付近には駐車場(有料)が沢山あるので適当な所に駐車して後はみやげ物屋の並ぶ路を灯台へ徒歩で向かう。城跡はその途中にある。八幡さん公園と呼ばれている所で、灯台のある岬の西側に突き出た岬である。太平洋が一望できる絶景地と言っても過言ではない。削平された公園となっており、土塁跡かと思われる高まりも見受けられるが、遺構であるかどうかは分らない。大王崎全体が城域であったのではないだろうか。せっかく来たのだから、ということで灯台に上り心地よい海風にしばし陶酔。 大王崎から国道260を南下して西へと向かう。英虞湾を北に包み込むようにして東西に横たわる半島がある。その半島の南岸に越賀城がある。付近の道路の交通量は異常にに少ない。城跡近くの漁港付近に車を停めた。漁港と言っても、まるでひと時代昔の漁村といった風情である。まず、騒音が無い。しんと静まり返っている。 越賀城には志摩十三地頭のひとりに数えられる越賀隆政が居た。九鬼嘉隆が志摩平定に乗り出した時、隆政は籠城して抵抗した。籠城は3年に及んだというから、気骨ある武士であったといえる。しかし、その間に領民が苦しむのを見るにしのびず、隆政は抵抗を諦めて嘉隆に臣従したという。領民思いの武士でもあったようだ。 城跡は岬の突端台地上に築かれていたが、現在は曲輪跡と見られる所が耕作地となっており、勝手に散策するのは憚られる。 これで志摩の主な城跡を廻り終えたのであるが、このまま引き返すのは惜しい。英虞湾を一回りして西へ少し行くと南伊勢町(伊勢国)に入る。ここには剣豪愛洲移香斎で知られる愛洲氏の五ケ所城がある。躊躇なくそちらにハンドルを切った。 愛洲移香斎は陰流の剣祖である。そのせいか剣道が盛んな町のようで、城山の下に建てられた「愛洲の館」と名付けられた資料館には剣道場が併設されていた。資料館を出て城址へと向かう。正面には直登する急な階段が設けられているが、山裾を迂回しながら緩やかに登るコースも設けられている。階段は帰りに利用することにして迂回散策路から登城することにした。 愛洲氏は南北朝時代に南朝の忠臣として活躍したことが太平記等に記されている。戦国期、織田信雄によってついに滅ぼされてしまうのであるが、移香斎の開いた陰流は上泉伊勢守によって新陰流となり、さらに柳生石舟斎によって柳生新陰流となって発展してゆくことになる。 山裾からの比高は30m位であろうか、登城にはそれほどの時間はかからない。本曲輪には石碑や説明板が立てられている。曲輪の尾根側には空堀が巡らされている。周辺は竹林となっていて時折吹く風に様々な音をたてていた。 五ケ所城の20kmほど西に一之瀬城がある。ここも南朝遺跡として知られる城跡である。 山間の静かな所である。県道22号度会町脇出に入ると一之瀬小学校(廃校)が東側に見える。その裏山が城址である。山裾の空き地に車を停め、城址へと向かう。そこは一之瀬神社が鎮座する森となっている。遺構として見られるのは拝殿裏側から小学校側に廻ると空堀くらいであろうか。神社の南側の尾根突端には南朝の遺跡らしく宗良親王の石碑が建てられていた。 南朝の重臣北畠親房の命で築かれた城で愛洲氏が城主となった。そして愛洲氏が親房と宗良親王を一之瀬城にお迎えしたということである。城史の詳細はまだわからないが、雨の降る暗夜にはこの森から合戦の雄叫びや刀槍相打つ音が聞こえると言う伝承があるそうで、かなり激しい戦いが繰り広げられたことが想像できる。 さて、時計を見ると15時を回っている。引き上げの時間である。高速道の渋滞を気に掛けていたがそれもなく、順調に戻ることができた。 |
↑鳥羽城 三ノ丸 ↑鳥羽城 本丸石垣 ↑田城城 ↑国府城 ↑波切城 ↑波切城から見た大王崎灯台 ↑越賀城 ↑五ケ所城 本曲輪 ↑五ケ所城 空堀 ↑一之瀬城 一之瀬神社 ↑一之瀬城 宗良親王遺跡碑 |
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5月3日(日)晴/小田城、結城城(茨城県) ホテルを早めに出て車を北に向けた。30分ほどの所に小田城がある。 この城も昨日の真壁城同様、国の史跡として発掘・整備が進められている。ただし、城跡までの進入路は狭いので注意が必要だ。城址の東側に国道125号線があり、見学者用の駐車場が設けられているようだが、肝心の城跡からかなり離れている。移動時間をなるべく短縮したい場合は国道に並行している旧道のバス停小田中部の交差点を曲がると城址近くまで車を進めることができる。 発掘整備されつつあるのは本丸部分である。四囲を土塁と堀で囲んだ関東の土の城である。ただ、郭内への立ち入りは発掘調査中とのことで禁止されており、外周からの見学のみとなっていた。 小田城は鎌倉期に常陸守護職となった八田知家がここに築城したことに始まる。小田氏を称するようになるのは四代時知からであろうか。南北朝時代には南朝方となり、北畠親房がこの城で「神皇正統記」を執筆したことで知られている。戦国期を翻弄されながらも何とか続いた小田氏であったが永禄12年(1569)に至り、佐竹氏に攻められて落城となった。 次に結城市の結城城へと車を進めた。 戦国時代の歴史には必ず「結城合戦」の名が出てくる。永享の乱(1438)で滅ぼされた鎌倉公方足利持氏の遺児を結城氏が擁し、結城城に反幕の旗を挙げた戦いである。戦いは関東一円に広がり、約1年の戦乱を経て結城城は落城した。鎌倉公方が復活すると結城氏も復活して結城城に返り咲いた。時代は変わり、徳川家康が関東の主となると家康次男秀康を養子に迎えた。関ヶ原後、秀康は越前へ移封となり、結城氏の結城城は廃された。 現在はかつての館、後の本丸跡が城跡公園となっている。戦国期の結城城の雄姿を偲ぶことはできないが、公園の西側や南側には堀や土橋の跡が残されている。 さて、時間は10時頃になっている。まだまだ城めぐりを続けたいところであるが、帰路のことを考えるとこの辺で切り上げた方がよさそうである。年齢的にも若くはないので疲労困憊の状態での長距離運転は避けたいからだ。 |
↑小田城 ↑小田城 ↑結城城 城跡公園 ↑結城城 堀跡 |
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5月2日(土)晴/水戸城、笠間城、真壁城(茨城県) 今年のゴールデンウィークを利用しての訪城は北関東茨城県、旧常陸国である。当初は日帰りの計画であったが、渋滞のことを考えると予測通りに計画が進むことはありえない、ということで急遽一泊する計画に変更して出発した。 出発は未明3時。寝静まった街から東名高速に入ると、いつもより車の交通量が多い。東京に近ずくにつれて渋滞の情報が入る。渋滞を覚悟して首都高に突入。断続渋滞にはまりながら両国付近になると完全渋滞となってしまった。常磐道に入っても渋滞が続いていた。これでは訪城予定数を減らさざるを得ない。とりあえず、水戸城を目標に車を進めた。 水戸城本丸跡の県立水戸第一高校に到着したのは11時半であった。予測の3時間遅れの到着となってしまった。それでも城跡に立つと、あせっていた気持ちも、なぜか落ち着くから不思議だ。 水戸城の起源は古い。平安末期頃に土豪馬場資幹がここに館を築いたことに始まる。その後、江戸氏、佐竹氏と城主が替わり、慶長七年(1602)に佐竹氏が出羽転封となって徳川氏の城となった。有名な水戸黄門こと徳川光圀公は水戸二代藩主であった。 本丸の高校入口の門を入った所に移築復元された薬医門が建っている。水戸城唯一の現存建造物なのである。建造の時期は佐竹氏時代とされている。柱などの部材が全体的に太くがっしりとして風格と威厳を備えた立派な城門である。 校門の前に橋が架かっているが、そのはるか下を鉄道が通っている。かつての堀切跡なのだ。橋を渡った先(本丸の西側)は二の丸である。その先が三の丸である。二の丸と三の丸の間も深い谷となって底は道路となっている。言うまでもなく、かつての堀切跡である。 三の丸には藩校弘道館があり、その正庁の建物が見学可能となっている。玄関を入ってすぐの諸役会所の床の間の「尊攘」と大書した掛軸が目を引く。そう、尊皇攘夷の理念はここ弘道館から生まれたといってもよい。 弘道館の見学を終えて、その西側へ向かう。県庁舎や図書館、警察署などの敷地となっているが、その西側には堀と土塁の一部が現存しているのだ。御三家の城とはいえ、水戸城は石垣を用いない土の城である。改めてここは関東なのだと実感する。 時刻は午後1時近くになっている。次の予定である佐竹氏発祥の馬坂城の訪城は断念して笠間市の笠間城へと車を向けた。30分ほどの距離である。 笠間城は関東には珍しく、石垣を用いた山城である。まずは山麓の真浄寺に移築されたという二層櫓を一見してから山上へと向かった。大手門跡前まで車道が整備され、かつて千人溜と呼ばれた曲輪が駐車場となっている。 石垣の山城とはいえ、中部地方の石垣の山城を見てきた者にとってはそれほど規模の大きなものではない。以前は本丸下まで車道が設けられたこともあってかなりの部分が破壊されているようだ。 まずは千人溜の駐車場から大手門跡を通って本丸跡を徒歩で目指す。大手門跡の道の両側は堀跡である。案内板の絵図には木橋が描かれている。以前に道路整備のために埋められて土橋となってしまっているのだ。見学路は何度か折れ曲がりながら本丸へと続いている。所々に石積みや石段が苔むしている。大手門跡から本丸まではさほどの時間はかからない。10分とはかからない距離であった。本丸の南側へと進むと堀切があり、石段が上へと続いている。登りきると天守曲輪であり、かつて二層の天守が建っていたという。石垣もそれなりに築かれているが、先の大震災の影響で崩落の危険があり、立入禁止となっていた。 笠間城は鎌倉期に笠間氏を称した藤原時朝によって築かれたことに始まる。その後代々続いて天正期に至り、小田原後北条氏側に付いたために宇都宮氏に攻められて滅んだ。後に蒲生氏が入城して織豊系の城に改修されたものである。その後城主が幾度か入れ替わり、牧野氏が城主となるに及び、八代続いて明治に至った。 笠間城で1時間ほど散策した後に車を南に向けた。桜川市の真壁城である。約1時間の距離であった。 真壁城は発掘・復元が進められている国指定史跡である。関東の土の城を体感できる城のひとつでもある。本丸跡に真壁町の体育館が建っており、その駐車場車を停めて散策開始だ。天気も良く、初夏の昼下がりといった陽気である。G/Wで人出も多い時期なのであるが、この城跡を散策しているは一人もいない。寂しい気もするが、その分気兼ねなく散策できる。 南に目をやると遠くに筑波山が見えた。本丸から少し高くなった二郭へ進むと整備復元された三郭、四郭の全体が俯瞰できる。東海地方では目にすることのない土塁に囲まれた平地の城の風景がそこに広がっている。 真壁城は平安末期に多気氏がここに館を築いて真壁氏を名乗ったのに始まる。そして代々続き、戦国期には「鬼道無」として知られる豪傑の真壁久幹がいた。関ヶ原の後、佐竹家臣に組み込まれた真壁氏は秋田に移り、浅野長政の隠居城となった。長政死後、三男長重が継いだが、本拠を笠間城に移したために廃城となった。 時間をかけて散策を堪能して車に戻ると陽が傾いてきている。つくば市内のホテルが空いていたので素泊まりで予約してある。今日の訪城は切り上げてホテルに向かうことにした。途中、夕食を済ませて早々とチェックインした。 |
↑水戸城薬医門 ↑本丸と二の丸間の堀切跡 ↑弘道館 「尊攘」の掛軸 ↑三の丸西側の堀 ↑笠間城 ↑笠間城天守曲輪の石垣 ↑真壁城 ↑真壁城 |
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4月18日(土)晴/前田城、古木江城、蜂須賀城(尾張)、竹ヶ鼻城(美濃) 本年二度目の尾張訪城。少し足を延ばして尾張西部の城跡を訪ねた。 まずは中川区の前田城へと向かった。前田城は前田利家で知られる尾張前田氏の発祥の城である。いつ頃の築城か定かではないが、利家の父利昌が織田家から荒子2千貫を与えられて荒子の地へ移るまで前田氏代々の居城であった。利昌が荒子に城を築いて移ったのが天文13年(1544)というから利家7歳の頃であったことになる。 前田城はその後も前田氏の城として存続していたようで、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦では秀吉方の前田与十郎が城主であった。与十郎は蟹江城で家康方と戦って討死した。与十郎は最後の前田城主となった。廃城後ここには利家の叔父利則が出家して寺を建てた。速念寺である。したがって速念寺が城址であり、与十郎ら前田家の墳墓が境内に残っている。 次は古木江城である。県道125号を木曽川近くまで車を進める。木曽川の手前に道の駅「立田ふれあいの里」がある。この道の駅の東側、鵜戸川を挟んだ対岸に富岡神社があり、そこに城址碑が建っている。道の駅に車を置いて徒歩で向かった。 古木江城は織田信長が長島の一向宗門徒に対抗するために築かれ、舎弟の織田信興が城主となった。元亀元年(1570)11月、門徒勢に包囲された城は6日間の激闘の末、落城してしまった。落城の際、城主信興は櫓に登って自害したと言われている。 城の縄張は不明であり、遺構もない。ただ、富岡神社が城の鎮守であったと言われているだけである。 ここから車を北上させ、蜂須賀城へと向かった。城といっても先の二城同様、遺構はない。あま市の蓮華寺に蜂須賀正勝の顕彰碑と城址碑が建てられている。城(居館)はこの寺に隣接して築かれていたようであるが、詳しいことは分らないようだ。 蜂須賀正勝は通称小六、秀吉に早くから仕えた重臣の一人であることは周知のことである。墨俣一夜城の構築には川並衆を率いて大活躍し、秀吉の参謀役として生涯を終えた義侠のひとであったようだ。 さて、本日の予定は以上の三城であったが、もう少し足を延ばそうということで、木曽川を渡って岐阜県羽島市へと車を進めた。羽島市役所の北800m程の所に羽島市歴史民俗資料館がある。ここが竹ヶ鼻城跡となっている。 築城は竹腰氏であるが天正9年(1581)に不破光治の子源六が荒廃していた城を拡大整備したとされる。天正12年(1584)の小牧・長久手合戦時に秀吉の水攻めを受け、一ケ月後に開城、退去した。 竹ヶ鼻城が再び戦火に見舞われるのは慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際してである。西軍織田信秀配下の杉浦五左衛門が城主であったが、東軍福島正則1万6千の軍勢の攻撃を受けてあえなく自刃、落城してしまった。二の丸に陣していた毛利広盛らが東軍に内応したためである。 |
↑前田城 前田速念寺 ↑古木江城 富岡神社 ↑蜂須賀城 蓮華寺 ↑竹ヶ鼻城 羽島市歴史民俗資料館 |
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3月21日(土)曇/林添館(豊田市) 林添は「はやしぞれ」と読む。豊田市の松平町の西隣の町である。松平氏初代親氏の足跡の残る場所でもある。そこには親氏が川に架けた石橋が残っているというので、それが見たくて出掛けた。 南北朝時代の終わり頃、在原氏の遺領松平郷を引継いだ親氏はより肥沃な土地を求めて領地拡大に乗り出した。その最初の標的となったのがこの林添村であった。松平郷の西約2kmである。 当時、林添一帯を支配していたのは薮田源吾忠元という土豪であった。親氏は屈強の配下を引き連れて松平を出発した。鷹狩の姿であったという。相手を欺くための演出だ。そして林添の薮田源吾を急襲して討取ったのである。これが松平氏の領地拡大の第一歩となった。 国道301の松平郷入口から西へ車を走らせれば林添はわずか3分とはかからぬ距離である。林添駐在所から150mほどの所に神明社がある。この神明社の建つ山が薮田源吾の屋敷跡であると伝えられている。この屋敷跡からさらに200mほどのところに晴暗寺があり、そこの無縁墓地に薮田源吾の供養塔がある。 晴暗寺からさらに100mほど行くと左側の川沿いに親氏が架けたと伝わる石橋がある。 本当に親氏の手に成るものであるとすると、戦国の昔から川幅も川筋も変わらずそのままの形で残っていることになる。稀有なことであると思う。いや、余計なことは考えない方がロマンがあっていい。親氏は人々のために道を拓き、橋を架け、せっせと汗を流したと言われる。この石橋はその名残りとして村の人々に大切にされてきたのであう。土地の古老は「太郎橋」と呼んでいた。親氏の通称は太郎左衛門なのである。 |
↑林添館(神明社/薮田源吾屋敷跡) ↑薮田源吾供養塔(中央) ↑伝親氏石橋 |
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2月21日(土)晴一時曇/比良城、久保山砦、小口城、苅安賀城(尾張) 尾張の城址探訪に出かけた。 本日最初の訪城先は名古屋市西区比良の比良城である。 比良城にはこんな話が伝わっている。 比良城の近くに「あまが池」があって、そこには身の毛のよだつおそろしき大蛇がいると言われており、蛇池とも呼ばれていた。その話を聞いた織田信長は真偽のほどを確かめようと近郷の百姓どもを招集して池の水を汲み出した。ある程度池の水が減ったところで信長自ら水中に潜って大蛇を探したが見つからず、清州に帰ったというのである。実はこの時に比良城ではある陰謀が企てられていたのである。この時期、比良城主佐々内蔵佐(成政)に逆心の風説が流れており、大蛇探しにかこつけて信長は必ず比良城に立寄り、城主に切腹を迫るに違いないと思われた。そこで家臣の一人が私にお任せあれと信長刺殺の手順を披歴したのである。ところが準備万端整えて信長の来城を待っていたのだが、大蛇探しが終わるとさっさと清州に帰城してしまったということで空振りに終わったと言う。 「信長公記」の巻首「蛇かえの事」としてこの事が記されている。佐々成政の逆心の真偽については分らないが、比良城は清州城の出城的な存在で信長にとっては重要な城であったはずである。城は成政の父成宗が天文年間(1532-55)に築いたとされ、成政が城主を継いだ。成政は信長のもとで鉄砲隊をさずけられ、数多くの戦場で活躍した。天正3年(1575)に柴田勝家の与力として成政が北陸に移るに際して廃城となったとされている。 現在は遺構といえるものは無く、光通寺境内に城址碑が建つのみである。 次は小牧市の久保山砦に向かった。久保一色の熊野神社のある高台が砦跡である。 小牧・長久手合戦に際して秀吉は小牧山城に対する砦を多く築いたが、久保山砦はそのひとつで、丹羽長秀が守備した。長久手合戦で秀吉方が完敗したことは周知のことであるが、長久手敗戦後に秀吉自ら久保山砦に前進して指揮にあたったと言われている。太閤山とも呼ばれる所以である。また、久保山砦は後方に内久保砦があることから外久保砦とも呼ばれている。 現在の砦跡は熊野神社の境内地となり、最高所に砦跡を示す石柱が建つのみである。ただ、段状の地形が曲輪のあったことを窺わせている。 次に向かった小口城も小牧長久手合戦時に秀吉方が再利用した城跡として知られている。 小口城の築城は長禄3年(1459)に尾張上四郡守護代織田敏広(岩倉城)の弟遠江守広近によってである。広近は後に美濃の斎藤氏に対するために木ノ下城(犬山市)を築いて移った。その後の小口城は岩倉城や犬山城の支配下に置かれ、永禄年間(1558-69)に織田信長によって落とされた時点では犬山城の家老中嶋豊後守が城主であったと言われる。 現在は城址公園となって物見櫓、堀、門などが整備されている。もちろん、すへて模擬であるが、発掘された井戸跡などもある。また御殿風外観の展示棟もあり、小口城の歴史を知ることができるようになっている。 この城址公園の南、大口町健康文化センター3階に歴史民俗資料館があるということで資料的なものがないか寄ってみることにした。 資料館で数冊の出版物を購入して大口町を出発、一宮市へと車を向けた。 同市大和町に所在した苅安賀城が本日最後の目的地である。 城主は浅井政貞で、近江浅井氏の庶族と言われるがよく分らない。政貞没後、子の長時が継いで織田信忠、後に織田信雄に仕え家老の一人となった。小牧長久手合戦前に浅井長時は秀吉への内通を疑われ、長島城に呼び出されて討取られてしまった。信雄は森久三郎を城主にした。 かつては二重の堀に囲まれた城であったというが、現在ではその面影もなく、自動車学校脇に城址碑が建つのみである。 |
↑蛇池 ↑比良城 ↑久保山砦 ↑小口城 ↑小口城/展示棟 ↑苅安賀城 |
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1月3日(土)晴/三瀬館、田丸城、大河内城、松坂城、松ヶ島城(伊勢) 本年の年頭訪城は昨年同様伊勢国の城である。 早朝4時発。寒気の影響で雪や凍結が案じられたが、訪城の可否は現地で判断しようと、ともかく高速を西へと向かった。案じたとおり、亀山付近では雪がかなりの密度で降ってきた。まだ、夜明け前で暗い。前方を除雪車が作業しつつ、その後を私を含めた一般車が50km/hほどの速度で続いて行く。おかげでノーマルタイヤでも通行できるのだ。ありがたいことである。伊勢道に入ると除雪作業も終わり、一般車は順調に走行を始めた。夜が明け、高速以外の周辺の風景は真っ白な銀世界となっている。 多気からは紀勢道となり、大宮大台ICで高速を降りた。8時頃である。最初の訪城先は北畠氏の三瀬館である。ICから国道42を3kmほど戻った大台町上三瀬の山麓部分に館跡がある。すでに朝陽を浴びて道路上に雪は無くなり、日陰部分だけが少し凍結していた程度であった。それでも畑地は真っ白である。 館跡前に車を止めて散策開始である。天気は快晴。外気は冷たいが朝陽が暖かく感じられた。 三瀬館は織田信長の伊勢攻略の際に信長次男信雄を養子にすることで和睦となった北畠具教が隠退の場所とした館であった。ところが、信雄の命を受けた北畠旧臣の刺客によって謀殺されてしまうのである。いくら戦国の世とはいえ、酷い話しである。 館跡は4段ほどの段々になっており、一番下の平地には具教の胴塚の碑が建ち、二段目の曲輪に「北畠具教郷三瀬館趾」の碑が建ちと説明板が立てられている。館趾の南側に小川が流れており、そこを渡ったところに具教卿の胴塚がある。 次の訪城先として霧山城を予定していたのであるが、そこまでは40kmほどの山間の道を走ることになる。積雪・凍結が十分予想される。そこで急遽、訪城先を変更して田丸城へと向かうことにした。 田丸城は当初は玉丸城と呼ばれていた。この城は南北朝期に北畠親房によって南朝の拠点城として築かれたのに始まる。戦国期には北畠具教の養子となった織田信雄が大河内城より当城に居城を移して大改修を加え、現在見られる石垣造りの城郭となった。この時に田丸城と名が改められ、三重の天守閣が建てられた。 現在も壮大な石垣や土塁、堀の跡が見られ、登城者を満足させるものとなっている。本丸天守台には足場用の単管パイプで組まれた仮設天守が建っていた。外側が白いシートで覆われている。天守石垣には金網が張られている。夜間にはライトアップとイルミネーションによって夜空に天守が白く浮かび上がるといった具合なのであろう。期間限定のイベントだそうだ。 田丸城へ移る以前に織田信雄が居城としていた大河内城へとむかう。大河内の読みは「おかわち」である。 この城も南北朝期に北畠氏によって北朝軍の攻撃に備えて築かれた城である。戦国期、織田信長の来襲にあたり北畠具教は本拠霧山城からこの大河内城に陣取って迎撃した。50日にわたる籠城戦の末に具教は信長次男信雄を養子に迎えることで和睦した。その後に移ったのが先の三瀬館である。 登城口には「大河内城跡」の看板が立っており、分りやすい。看板から坂道を登る。搦手門跡の石標が立っている。坂路を登りきると二ノ丸である。城内で最も広く、馬場跡や御納戸跡の石標が立っている。戦時には多くの城兵を収容配置できたものと思われる。織田軍5万を相手にしてびくともしなかったのもうなずける。ただし、城兵の数が多くなれば、兵糧の消費も激しくなるわけで、結局兵糧切れで和睦したようなものでもあった。 さて次は松坂城である。大河内城から車で20分ほどであろうか。城跡の北側に市営駐車場がある。年末年始は無料開放されているのであろうか、料金所はスルーであった。 城の入り口は城の東北に位置し、かつての大手口である。表門跡の枡形から本丸下段に入る。野面積の石垣で累々と築かれたこの城は現在では建物は無くなっているが縄張そのものは戦後の改変を受けることなく原型をとどめている。下段から本丸上段へ入る。天守台には三層の天守閣が建てられたという。 本丸から東側の二の丸に出る。二の丸南面の石垣上から城下を眺めると二列の長屋の屋根が眼下に見える。御城番長屋である。まるで江戸時代にタイムスリップしたように、そこだけ時間が止まっているような感じである。城の南側裏門から出て石垣沿いに表門方向に散策する。この間の野面積の高石垣は圧巻である。 松坂城を築いたのは豊臣時代に松ヶ島城主となった蒲生氏郷である。氏郷は荒田に築いたこの城に吉祥の木である「松」と豊臣秀吉の大坂城の「坂」を貰い受けて「松坂城」と名付けた。氏郷は新築の城に移ってわずか2年で会津若松40万石に太守となって去ってしまった。小田原攻めの戦功である。その後は服部氏、古田氏が城主となり最終的には松坂は紀州藩領となって明治に至る。 続いて向かったのが松ヶ島城である。今日最後の訪城となる。松坂城築城前に蒲生氏郷が入城した城である。 この城も北畠具教が織田信長の伊勢侵略に備えて築かれた城で、当初は保曽久美(ほそくみ)又は細首城と呼ばれていた。織田の大軍によって瞬く間に踏みつぶされたと言われる。落城後、北畠具教の養子となった織田信雄は大河内城から田丸城へその居を移し、その後ここ松ヶ島城を居城とした。信雄はこの城を改修して五層の天守を建てたという。松ヶ島の名も信雄が付けた。 その信雄が築いたたいそうな城も今は畑の真ん中に小さな円形の丘が残るばかりとなっている。地元では天守山と呼ばれているそうだ。丘の上の一本松が過ぎ去った歴史のはかなさを語りかけているように思えた。 |
↑三瀬館 ↑田丸城 天守台 ↑田丸城 石垣 ↑大河内城 ↑大河内城 本丸 ↑松坂城 本丸 ↑松坂城 御城番長屋 ↑松坂城 石垣 ↑松ヶ島城 |