■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2013 管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の探訪記録です。 |
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12月15日(日)晴時々曇り/桜城、金谷城、七州城、寺部城(豊田市) 今日は今年最後の訪城として豊田市中心部の城4ヵ所を回った。金谷城、桜城、七州城は豊田市挙母地区にあり、いずれも時代と共に変遷した挙母城といえる城である。 まずは路駐となる桜城から訪城を開始した。朝の交通量の少ない時間帯ならば路駐も気兼ねすることもないからである。 桜城は元城町のNTTビルの北側に桜城址公園として北隅櫓台の石垣が残されているにすぎない。時節柄、イルミネーションのネットが石垣の一面に架けてあった。 この桜城、慶長九年(1604)に三宅康貞が武蔵国瓶尻から一万石で転封となって陣屋を構えたことに始まる。三宅氏はかつて伊保(豊田市保見町)の土豪であったから故地に戻ってきたことになる。康貞は衣の古城(金谷城)を廃して水運、陸運の交通の要衝である現在地に陣屋を置いた。桜の木を城の内外に多く植えたことから佐久良城と呼ばれたという。衣が挙母と変えられたのは天和元年(1681)に藩主となった本多氏の時代と言われる。次に藩主となった内藤氏によって陣屋から城郭化への改築が進められたが度重なる矢作川の洪水によって工事は進まず、当地における築城は工事半ばにして断念され童子山に新築されることになった。 次は中世の挙母(衣)城といえる金谷城へ向かった。桜城の南約1kmほどの所にある。遺構は宅地化が進んでいるが、名鉄沿線部分には堀や曲輪跡が竹藪となって残っている。車で行く場合には勝手神社の駐車スペースを利用した方がよい。城址碑はこの神社境内に建っている。遺構を見に行くにはここから歩いて行く。周囲の道は狭く、車での移動は避けた方がよさそうである。歩いても1分ほどの距離である。薄暗い竹藪の中に堀が見事に残っている。 金谷城主は中条氏で、鎌倉期に当地に定着した。南北朝期の当主長秀は中条流平法(兵法とは呼ばない)の創始者である。いわゆる剣術の流派で後には一刀流や冨田流として発展してゆく。しかし戦国期には松平氏や織田氏との争いによって衰え、永禄四年(1561)ついに信長によって滅ぼされてしまった。その後は織田氏、徳川氏の城として存続したが関ヶ原後に封ぜられた三宅氏は金谷城に拠らず後の桜城に本拠を構えたために廃城となった。 金谷城を中世の挙母(衣)城とすれば桜城は近世の挙母城となる。しかしその桜城は度重なる水害によって築城が頓挫してしまった。時の藩主内藤学文(さとふみ)は幕府から二千両の借金をして童子山に移転築城を行った。その城が七州城と呼ばれる三番目の挙母城となったのである。 七州城は豊田市美術館の建てられている丘全体が城域であろう。その一画に二層の隅櫓が復興されている。この城からは三州、尾州、濃州、信州、遠州、勢州、江州の七ヵ国が見渡せたと言われることから七州城と呼ばれたという。城の雰囲気を感じさせるのはこの隅櫓の周辺だけであるが、美術館の広大な駐車場となっている部分もかつての堀跡である。また、隅櫓の近くには寺部城から移築復元された渡辺家の書院・茶席「又日亭(ゆうじつてい)」が建っている。 これで挙母三城を廻ったわけであるが、この近くの矢作川東岸に鈴木氏の居城であった寺部城があるのでそちらに車を向けることにした。県道343号の高橋から矢作川を渡り、北へ400mほどの所に寺部城址はある。 寺部城は戦国期に西三河山間部に勢力を拡げた鈴木氏一族の城である。寺部鈴木氏と呼ばれ、足助鈴木氏などと同族である。金谷城の中条氏に属していた時期もあったが半独立的な立場を維持していたようだ。永禄元年(1558)には松平元康(徳川家康)の初陣として寺部城攻めが伝えられている。永禄九年(1566)、信長家臣佐久間信盛に攻められて落城、寺部鈴木氏は滅んだ。慶長十五年(1610)、尾張徳川義直の軍事指南役として「槍の半蔵」として名高い渡辺半蔵守綱がこの城跡に入って陣屋を構えた。 現在は土塁上に城址碑が建ち、陣屋跡は城址公園となって市民散策の場となっている。 今日の訪城が今年最後の訪城となった。国内の城は38ヶ所、海外史跡として2ヶ所の計40ヶ所となった。地道にこつこつとがモットーではあるが、歳(来年は60歳)のことを考えると、ちょっとした焦りも出てしまう。もう年齢のことは、考えないぞぉーっと(^_^) |
↑桜城 隅櫓台石垣 ↑金谷城 城址碑 ↑七州城 復興隅櫓 ↑又日亭 ↑寺部城 城址碑 |
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11月2日(土)曇/守山城、末森城、下社城、岩崎城(名古屋市、日進市) 久々の尾張の城めぐりに出かけた。 まずは守山城を起点に末盛城、下社城そして岩崎城の順に攻略である。 守山城はいわゆる「守山崩れ」の舞台となった所である。天文4年(1535)、三河を平定した松平清康が尾張へと駒を進め、守山城に着陣した。翌早朝、陣中の馬が暴れ出して城内が騒々しくなり、かねてより清康に逆心ありの噂があった家臣安倍定吉の子弥七郎が、これは父が成敗されたのかと早合点して逆上、主君清康に斬りつけたのである。弥七郎はその場で切り殺されたが、清康もまた深手を負って絶命してしまった。清康、この時まだ25歳。群雄割拠する三河をこの若さで平定した清康の力量からすれば尾張の平定も夢ではなかったかも知れない。稀代の英雄を失った三河勢はわずか1日で尾張から崩れるようにして去って行った。 城址には清康の位牌が安置されているという宝勝寺が建っている。この寺の裏手に足を運ぶと深い空堀が竹藪となって残っている。さらにその向こう側には住宅地の中に土塁の一部が残されておりその上に城址碑が建てられていた。 末森城は守山城から3.5kmほど南にある。車で10分ほどである。現在は城山八幡宮の境内地となっている。本殿前が駐車場となっており、そこがかつての本丸跡で城址碑もそこに建っている。この神社の周囲は空堀が廻っている。駐車場から参道の階段を南へ降りると赤い欄干の橋が架かっている。その橋の下がかつての空堀なのである。この空堀は本丸の南側から東側を廻っている。 この末森城は織田信長の父信秀がそれまでの居城であった古渡城を破却して新たな居城として築いたものである。信秀の死後は信長の弟信勝(勘十郎信行)の居城となった。織田家の主導権争いで信勝は信長に謀殺されてしまう。その後の末森城のことは史上に現れないので分らないが遺構の残存具合から破却されずに利用され続けていたとも考えられる。 この信勝の家老であった柴田勝家の誕生地であり居城であったのが下社城である。末森城の東4.5kmの位置にある。享禄3年(1530)の生まれで、信秀・信勝そして信長に仕えた。勝家は信長の家中でも猛将として知られ、「鬼柴田」の異名をとるほどであった。本能寺の変後は羽柴秀吉と賤ヶ岳に戦い敗北、越前北ノ庄城にて自刃して果てた。 下社城跡は現在の明徳寺の建つところにあったとされるが遺構は見られない。お寺の入り口に勝家誕生地の碑と下社城址の碑が建つのみである。場所は高台となっており平山城の形態であったといえる。 下社城の南東3.7kmのところに岩崎城がある。 岩崎城は信長の父信秀時代に三河に対する前線基地として築かれたものと言われ、天文年間(1532-55)に土豪丹羽氏が修築して居城とした城である。天正12年(1584)の小牧・長久手合戦の時に秀吉軍の三河中入りの軍勢に攻められ、丹羽氏以下二百余人の城兵が全滅して落城した。いわゆる「岩崎城の戦い」として知られる城跡である。 岩崎城を落としていい気になっていた秀吉軍であったが、この攻城戦に費やした時間が彼らの命取りになってしまった。追撃する徳川勢に追いつかれ、長久手の戦場で秀吉軍は壊滅してしまうのである。秀吉方の池田恒興や森長可といった有力武将があえなく討死してしまっている。岩崎城が全滅するまで戦い抜いたことが徳川方の勝利につながったといえる。 現在は本丸跡に歴史記念館や展望塔としての模擬天守が建てられているが空堀や土塁の遺構も残っており、戦国期の城の風情をわずかに残している。櫓台跡には「表忠義」碑が建てられて岩崎城の戦いで全滅した城兵たちの忠義を称えている。 |
↑守山城 ↑末森城 ↑下社城 ↑岩崎城 ↑岩崎城櫓台に建つ「表忠義」の碑。 |
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10月27日(日)晴/佐田城、堀江陣屋(浜松市西区舘山寺) 佐田城というと、一般的には堀江城(現、遊園地パルパル)の別称、あるいは遊園地の方を古い堀江城として佐田城と呼び、西隣の御陣山(ホテル九重の前)を新しい堀江城(陣屋跡)とする見方もある。 佐田城と堀江城は同じ城のことなのか。これは庄内地域(舘山寺町とその周辺域)に土着した堀江氏と大沢氏のことなどが絡み合っていて釈然としないのが現状のようでもある。 庄内にやって来たのは大沢氏の方がやや早いようで南北朝中頃、堀江氏は室町の初期とされている。しかし文献に現れるのは堀江氏のほうが早く、今川氏親の将伊勢宗瑞の大軍を相手に戦った(文亀元年/1501)ことが知られている。大沢氏の方は天文(1532-1555)以降にならないと出てこない。堀江氏は大沢氏が登場する頃には史上に出てこないので文亀から天文の間に両氏の入れ替わりがあったことになる。 それから地名であるが、堀江の地は古くは佐田と呼ばれていたらしい。いつ頃変わったのかは分らない。大永二年(1522)に滅亡した堀江氏の遺徳を偲んで住民たちが佐田を堀江に変えたとも言われている。そうすると堀江氏の城を佐田城(もしくは堀江古城と呼んでもいいと思う)、大沢氏の城を堀江城と言えなくもない。 問題はその場所である。遊園地の方の堀江城は今川氏の力を背景にした大沢氏の城跡であったことは間違いないと思われる。徳川家康との激闘が展開された城であることは周知のことである。一方の堀江氏の城跡はどうであろうか。静岡古城研究会「古城57号/瀬戸方久と新田喜斉と庄内の城」のなかで高山新司氏が「地形や地名から判断し「舘山」の地点が相応しいと考える」と述べられている。「舘山」は舘山寺温泉街の突き当りにある曹洞宗・舘山寺のある半島状の山全体を言う。 実は、有名な観光地でありながら「舘山寺」には行ったことが無かったのである。お寺そのものは半島の付け根部分に建てられている。そしてその裏山である「舘山」には高さ18mの観世音菩薩像や展望台などがあって遊歩道が整備されている。 実際に歩いてみると、高所部は岩が露出していて何らかの構築物を設けるには向かないようだ。たとえ設けたとしてもこの地方特有の秋冬における強い西風には耐えられないような気がする。湖上を渡って吹き寄せる風は台風並みの強さがある。とはいえ、最高所の富士見岩からの眺望はすばらしい。櫓など築く必要もないだろう。鞍部には平場が見受けられたが、これは以前あったという植物園の名残りなのかもしれない。やはり、居館を置くとすれば現在お寺のある部分であろう。 東北端の湖に面した岩場・西行岩に立ってみた。対岸は大草山で、距離100m位の海峡地形になっている。目を凝らして対岸を眺めると湖岸は岩場であるがその中に一際大きな岩場が見える。「稚児岩」と呼ばれているものだ。 この岩には堀江氏の最期を物語る伝説がある。堀江氏最後の城主となったのは堀江氏が当地に土着してから六代目の清泰であった。代々善政を布いて領民たちに慕われていたという。そこへ今川の大軍が攻め寄せてきたのだ。「浜松の史跡・続編」にはこうある。「城兵はよく奮戦したが及ばず、城主夫婦は城に火を放ち、闇にまぎれてひそかに脱出し、船で大草山にさしかかったが、そこにも敵は待ち構えていた。今はこれまでと、湖中の大岩によぢ登り夫婦もろとも自刃して果てた。翌日敵兵が岩に近づくと、生まれたばかりの赤子が母親の死骸に抱かれて眠っていた。さすがの敵もあわれを感じて育てることにした。これが稚児岩と言われるようになった」というこである。 遊覧船が稚児岩の前を過ぎっている。我に返った私は温泉街へと足を向けた。ホテル九重の正面にある山が御陣山である。その南側の一画が堀江陣屋跡となっている。ちょうど御陣山と堀江城(遊園地)の間にあたる。 この陣屋の主は大沢氏である。堀江城主であった大沢氏は永禄12年(1569)に今川方への忠節を守って徳川家康に対抗して籠城戦を展開したが、所領安堵を認められて和議に応じ、以後は家康に臣従した。最終的には3500石ほどを拝領し、高家に列したことで知られている。 |
↑中央の半島が舘山 ↑舘山鞍部の遊歩道 ↑最高所の富士見岩からの眺望 ↑舘山・西行岩から対岸の稚児岩(矢印)を展望 ↑堀江陣屋跡付近 |
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9月27日(金)晴/真珠湾(ハワイ) ハワイと言えば日米双方にとって忘れられないのが太平洋戦争開戦の地、真珠湾(パールハーバー)であろう。日本海軍が戦況を有利に進め、早期講和に持ち込むための乾坤一擲の作戦が真珠湾攻撃作戦であった。ハワイを根拠地とする米太平洋艦隊を殲滅するために昭和16年12月8日に実施された航空機による攻撃作戦である。 娘の挙式までの数日間は観光に明け暮れることにしており、今日はパールハーバー徹底解剖ツアーと銘打つオプショナルツアーに参加した。10人ほどが1台のバンに乗ってのツアーである。 ホテルから真珠湾に着くまでの間、ガイドがバンを運転しながら真珠湾攻撃に至る経過を解りやすく説明してくれる。まずはアリゾナ記念館のビジターセンターに到着だ。すでにツアーのバスやバンが駐車場に次から次へと入って来る。ここから先はセキュリティの関係で手荷物厳禁、カメラ以外はハンドバックやポーチなども持ち込めない。財布などポケットに収まるもの以外は預けなければ入れないのだ。つまりカメラ以外は手ぶら状態でなければならない。 入場するとそこは太平洋歴史公園となっていて資料館やショップなどの建物が並んでいる。まずはガイドがアリゾナ記念館へのボートのチケットを取りに行く。2時間半後のチケットが取れたとのこと。その間に公園内に展示されている潜水艦ボーフィンの説明を聞く。大戦中何隻もの日本の輸送船や軍艦を撃沈した潜水艦で司令塔には沢山の日の丸の撃沈マークが描かれていた。 続いてバンに乗ってフォード島へと向かう。フォード島は現在でも米軍の軍事施設であるため特別の許可を受けた車両以外は入れない。当ツアーはその許可を事前に取得しているのであろう、検問所もフリーパスであった。到着したのはフォード島南岸に繋留されて記念館となっている戦艦ミズーリである。 戦艦ミズーリは太平洋戦争の終戦に際し、日本の降伏文書の調印式が行われた艦である。戦後、朝鮮戦争に出撃した後に一旦退役するが再び近代化の改修を受けて湾岸戦争に出撃、トマホークミサイルを撃ち込んだという。その後真珠湾に繋留され、記念館として一般公開に至ったものである。右舷側面には太平洋戦争時に零戦の特攻を受けて湾曲した跡が今なお残っている。 戦艦ミズーリの見学を終えた後に向かったのは太平洋航空博物館だ。入館するなり朝焼けを背景にした零戦が展示されている。空母から今まさに出撃せんとする様子が再現されているのだ。ちょっとまてよ、もしこれが日本国内であったらどうだろう。戦争を美化し、肯定するものだと非難を受けそうな展示ではないだろうか。しかし、ここはアメリカである。アメリカにとってこの当時の日本は憎むべき敵国だったはずだ。それが日本側の開戦を象徴するようなシーンを再現している。勝利者の余裕なのか、それともアメリカにとってあの戦争はすでに過去のものなのであろうか。 ツアーは再び歴史公園の方へ戻り、いよいよアリゾナ記念館へと向かう。アリゾナ記念館へはシャトルボートで向かうのであるが、その前に記録映画を20分ほど見せられる。無論、真珠湾攻撃の記録映画である。映画を見た後、ボートに乗船、アリゾナ記念館に向かう。 アリゾナ記念館は日本の真珠湾攻撃で爆沈した戦艦アリゾナを跨ぐようにして建てられている。記念館から海面を覗くと海中に沈んでいる戦艦アリゾナが見える。そして海中に沈んで70年以上を経た現在でも重油が漏れ続けていて海面に虹色の斑紋を浮かべている。今後50年は止まらないだろうと言われている。 再びシャトルボートで公園へ戻り、ツアーは終了だ。パールハーバーへの訪問者は圧倒的にアメリカ人が多い。日本人と思われる訪問者はごく少数のように思われた。ここ以外の観光地では圧倒的に日本人が多いのに。 |
↑真珠湾 ↑潜水艦ボーフィン ↑戦艦ミズーリ ↑太平洋航空博物館の零戦 ↑戦艦アリゾナの第3砲塔跡 ↑アリゾナ記念館 |
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9月26日(木)晴/イオラニ宮殿(ハワイ) 娘の挙式でハワイ行きとなった。両家の家族が参列するだけの式であったが、最近ではこうした海外挙式が多いようだ。宿泊先のホテルからは毎日数組の新郎新婦がリムジンで教会へと向かう姿を見かけた。 ハワイはアメリカ合衆国50番目の州であるが、かつては国王の統治する王国であった。初代国王となったのはカメハメハ大王の名で知られるカメハメハ1世である。建国を宣言したのが1795年(寛政7年/11代将軍徳川家斉の時代)、ハワイ諸島を統一したのが1810年(文化7年)であるから王国としての歴史は浅い。それでもカメハメハ大王の後、8代の王が続いた立憲君主制の国であった。最終的には親米勢力によるクーデターなどによって1898年(明治31年)に米国領となってしまい、約100年で王国は消滅してしまった。 イオラニ宮殿は米国唯一の王宮として喧伝され、1978年以後一般に公開されている。この宮殿は第7代国王カラカウアによって1882年に完成したもので、米国併合後は1968年まで議事堂として利用されていたといわれている。 私が家族とともに訪れたのはタクシーを待たせての訪問であったため、外観のみの見学となってしまったが、ハワイ王朝崩壊の歴史を刻む建造物として感慨深いものがあった。通りを隔てた所には初代カメハメハ1世の像が建っており、多くの観光客に囲まれていた。 |
↑イオラニ宮殿 ↑カメハメハ大王像 |
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8月17日(土)晴/秋月城(朝倉市) 8時に久留米のホテルを出て40分ほどで大刀洗に到着した。ここはかつて陸軍の航空基地のあった所である。現在では工場用地や農地となって大飛行場がここにあったことなど想像もできないほどに平和な風景が広がっている。大刀洗駅前にはかつて航空基地の街であったことを示すかのようにT-33練習機が展示されていた。 所用と云うのはここ大刀洗にある。戦時中、父が17歳くらいの頃と思われるが、「大刀洗憲兵分遣隊」に軍属として勤めていたことがある。この時の写真が親戚の手を通じて私の所に戻ってきた?のであるが、この写真、憲兵隊隊舎前での記念撮影のようで、父もこの中に混じって写っているのだ。この憲兵隊跡地は現在は民家となっているようだが、跡地を囲んでいる赤レンガの塀は当時のまま残っている。私事ではあるが、父と同じ場所に立ってみたかったのである。 さて、これで帰路についてもよいのだが、ここから車で30分足らずの所に秋月城があるので立寄ることにした。 秋月城は秋月氏の居館城であったが秀吉の九州平定によって秋月氏は日向高鍋に移封となって廃城となった。その後、寛永元年(1624)に黒田長政の三男長興が五万石を分封されて廃城となっていた当城に陣屋を構えた。以後、福岡藩の支藩秋月藩として明治に至った。 秋月城下は明治9年(1876)の旧藩士族による秋月党の乱の悲劇の舞台になった所であるが、年月を経た今、その街並みは小京都を思わせるような、どこか懐かしさを覚える静かな所といった印象を私たちに与えてくれる。現在城跡は中学校の敷地となったり神社や公園が設けられているが、堀や石垣、城門などが往時の名残をとどめている。 10時半、訪城を終えて帰路についた。関西地方の渋滞を抜けて浜松に着いたのは日付の変わった午前2時、走行距離2500kmの旅であった。 |
↑大刀洗憲兵分遣隊(個人蔵) ↑憲兵分遣隊跡の煉瓦塀 ↑秋月城 |
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8月16日(金)晴/鹿屋城(鹿屋市)、久留米城(久留米市) 急遽、亡き父の故郷へ帰ることになった。鹿児島県鹿屋市である。大隅半島のど真ん中にあたる。大戦末期には海軍の特攻隊が飛び立った地でもある。 浜松を出発したのは14日の夜である。夜通し高速を走り続けて昨日の昼過ぎに鹿屋へ到着した。同行者はいつものトモ坊に加えて私の弟も加わり、三人の旅となった。昨日の内に墓参などの所用を済ませて今朝の訪城となったしだいである。 鹿屋城は地元では城山と呼ばれ、亡き父の幼少の頃の遊び場でもあったところである。城の形態は山城であるが、鹿児島の山城は他の地域の山城とは全く違う。シラス特有の地形を生かした城で、各曲輪が一つの独立した城となっているのである。薩摩半島の知覧城などその典型であるが、鹿屋城もそれと同様のものである。 鹿屋城の創築は「島津久経時代津野四郎兵衛、鹿屋城主」と「古城主由来記」にあるそうで、鎌倉期承久年間(1219-22)の頃と言われる。津野氏の後、萩原氏、鹿屋氏と城主が変わったが、当初から現在地に城が築かれていたのかは分らないそうである。鹿屋氏没落後の天正8年(1580)からは伊集院忠棟が城主となり、都城へ転ずる文禄4年(1595)まで居た。その後、島津久信が居城としたが一時的なもので廃城となった。 鹿屋城訪城の後、海上自衛隊鹿屋基地広報館に寄り、鹿屋から離れた。弟は仕事の都合にて鹿児島駅から新幹線で帰宅の途に就き、私とトモ坊は九州道を北上した。今回の九州行きの所用がもう一つ、久留米にあるのだ。 久留米に到着したのが17時半頃であった。冬と違って夏は日が長いのでありがたい。ホテルのチェックイン前に久留米城へと向かった。 久留米城の創築は戦国期の永正年間(1504-21)に高良山寺院勢力が出城として築いたことに始まると言われる。豊後の大友宗麟などが何度か久留米に兵を進め、この久留米城でも戦いがあったそうだ。豊臣秀吉の九州平定後は毛利秀包が入城、関ヶ原後は築後一国が田中吉政の支配となり、久留米城には吉政の二男則政が居城とした。元和7年(1621)からは有馬氏が21万石で封ぜられて明治に至った。有馬氏は毛利、田中時代から改修され続けてきた久留米城を大規模に拡張整備して大藩に相応しい城郭に仕上げた。 現在は城址の大半が工場や宅地に変貌して本丸のみがかつての城の雰囲気を残すのみとなっている。それでも本丸を取囲む高石垣は健在で、見応えのあるものとなっている。 |
↑鹿屋城本丸の城址碑 ↑鹿屋城本丸の土塁 ↑久留米城本丸 ↑久留米城月見櫓の石垣 |
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8月14日(水)晴/竹本城(豊川市) 今日も早起きついでに豊川へと向かった。浜名バイパスと豊橋バイパスが最近繋がったおかげで豊川市御津町方面まで30分とかからぬ近さとなっている。 竹本城は昨日の大沢城と同じ町内にあるのだが、その由来はまったく違う。現地説明板によれば、新田義貞の家臣高田薩摩守の二男又次郎政季がここに居を構えた、とある。その政季が後に竹本と氏を改め、代を重ねて戦国期に至った。戦国期には多くの東三河の諸氏が今川氏従ったのと同じく竹本氏も同様であったようだ。竹本四郎左衛門成久の時に桶狭間の戦い(永禄3年/1560)があり、主家今川義元が敗死した。成久はこれを機に当地(為当村)で帰農したと伝えられている。 天正期(1573-1591)には長沢松平氏家臣山田長門守が居城としたが、家康第六子松平忠輝の流罪死去に伴い、山田父子は殉死して果てたと言われている。 現在は県道372号によって東西に分断されており、東側部分が秋葉社境内地となっている。城址碑、説明板はこの神社内に建てられている。西側部分は宅地化されているようだが、その北側から眺めると切岸の段差があるのがよく判る。 |
↑竹本城 城址碑 ↑北側の切岸 |
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8月13日(火)晴/大沢城(豊川市) 連日、異常な猛暑が続いている。訪城もためらうほどの暑さである。今日は盆の墓参りのために早起きしたついでに豊川の城へと車を走らせた。 大沢城は豊川市西部の御津町にある。遺構は土塁跡が残るのみであるが、それでも70mほど道路沿いにそれが確認できる。おそらく方形城館型の城跡と思われるが、その全貌は明らかではない。土塁の内側は柿畑になっているようで立入はできない。 大沢城の城主は三河一色氏の重臣波多野氏とされている。文明9年(1477)当時、波多野全慶時政は主人一色時家を討ち一色城を奪ってしまった。まさに下剋上の走りと言ってもよいだろう。その全慶、結局は同じ国人衆の牧野氏に滅ぼされてしまう。その後、豊川地域は牧野氏の支配する所となり今川、松平、織田の勢力の狭間で戦国の世を生きることになる。 大沢城は東三河の下剋上を最初に成し遂げた梟雄波多野全慶の遺跡であったとするならば、感慨深いものがあるのではないだろうか。 |
↑大沢城 土塁 ↑土塁内側の果樹園 |
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7月20日(土)晴/飯盛城、真弓山城(豊田市) 今日は足助氏の城跡を目指して出掛けることにした。目的は足助氏の本城とされる飯盛城、そして鈴木氏の構築した真弓山城である。 夏休みには涼を求める家族ずれで、また秋には紅葉で大賑わいの香嵐渓であるが、飯盛城はその観光地のまっただ中にる。香嵐渓の駐車場が満車になるのを恐れて、得意の朝駆けで午前8時には駐車場に乗り入れた。国道153号香嵐渓交差点の南側が公営の駐車場となっている。 飯盛城(飯盛山)への登山口は先の駐車場の目の前にある。早速登山開始だ。登山道は山頂まで階段状に整備されている。とはいえ、途中何度も息を整えながらの山登りとなる。途中、目を周りに向けると曲輪状の段々が確認できて山城の雰囲気が伝わってくる。駐車場からの登山道を登りきるとV郭の削平部に出る。そしてもう一息登れば主郭である。広さはさほどでもなく、物見櫓程度の建造物が建てられていたものと思われる。現在は休息用の東屋が中央に建てられている。 飯盛城は平安末から鎌倉期にかけて足助荘を地盤とした足助氏の本城とされている。後醍醐帝の笠置山挙兵の時、足助重範が自慢の強弓をひっさげて帝のもとに馳せ参じて活躍したことが知られている。 下山は飯盛山南麓の香積寺の方へ向かった。途中には足助氏や鈴木氏の墓塔が残っている。香積寺は足助氏の居館跡に建てられたものと言われ、山門の両脇には巨大な土塁が今も残っている。 一汗かいて駐車場に戻り、土産物店で冷たいお茶を一気飲みした私は真弓山城へと車を走らせた。10分とかからぬ距離である。 一般的には足助城として知られる戦国期の山城である。実はこの城は二度目の訪城なのである。5年ほど前に訪れたのであるが、その時の写真がパソコンの不調で全部が消えてしまい、アップ出来ずじまいになっていたのである。いつかは再訪をと常々思っていたところであったのだ。 城跡は発掘調査を踏まえて忠実に再現・復元されたものとして評価されている城跡である。発掘調査の結果、足助氏時代(鎌倉-南北朝期)の遺構の確認はされなかったということで、戦国期に当地域を支配した鈴木氏の整備した城跡であったようだ。城跡には厨、長屋、物見台、高櫓が建ち並んでいる。まさに戦国時代の地方土豪の山城とはこうしたものであったのかと一見に値するものである。 飯盛城が足助氏の本城とするならば、その後入った鈴木氏は飯盛城より高いこの真弓山城(足助城)を本城としたとも考えられる。 足助鈴木氏は今川、武田、徳川とその帰属を転々としたが、最終的には徳川家康のもとで軍功を重ね、家康の関東移封に従って城は廃された。その後、当主鈴木康重は浪人したと言われている。 |
↑飯盛山登山口 ↑香積寺山門の大土塁 ↑真弓山城(城跡公園足助城) ↑真弓山城主郭 高櫓と長屋 |
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7月7日(日)曇後晴/城の腰城、萩城(豊川市) 朝、外に出ると濃霧。朝霧の日は必ず晴れるものだ。今日も豊川市内の訪城へと出かけた。市内とはいえ、近年の大合併で市域はかなり広がっている。目的の萩城は旧宝飯郡音羽町にある。 東名高速音羽蒲郡ICを出て県道332号を山間の方向(北東)へ車を進める。3kmほど行くと道路の両側に竹林が迫っている場所がある。城館資料には「城の腰城」として記載されているものだ。道路沿いに白い標柱が立っており、「城の腰跡」と表記されている。他に「城の古址」「城の越」と書かれることもあるという。この標柱の所から丘の上に上がることができる。一面の竹林であるが、平坦な場所となっていて曲輪跡といえば言える。平坦地の北縁部は内側が窪んだ土塁跡が廻っていた。標柱から県道を40mほど行くと幅1.5mほどの切通し道がある。かつての堀(切)跡とされている。 城の腰城の城主は奥平周防守、時期は永禄年間(1558-70)とされる。奥平氏は新城市作手の亀山城を本拠として四隣に勢力を拡大した国人で宝飯郡にもその勢力を拡げていたのである。 この城の腰城の北400mほどの所に善住寺がある。ここに「萩城主奥平周防守家之墓」がある。一旦、県道から外れて善住寺へと向かう。石庭と紅葉で有名なお寺のようでバスが駐車できるスペースまで用意されていた。寺域は広そうなのだが、駐車場に立っている案内板の絵図に萩城主の墓が描かれているので探し回らなくてもすぐに分る。 気になるのは萩城主とされていることだ。萩城は城の腰城から県道を北東方向へ1.5kmほど行った所にある小規模な山城なのである。実は古い地誌類にはこの二つの城跡が混同されて伝えられていることもあって城の歴史となると幾人かの人名が登場するなどして明瞭さに欠けると言わざるを得ない。 さて、その萩城である。城館資料の縄張図を見ると丘陵先端部に築かれた単郭の山城のようである。城山の東側農道脇に「萩城址」の白い標柱が立っている。そこから山に入って行けるようだ。現状は藪化しているようなので、それなりの格好で出掛けて来ている。 霧は完全に晴れて日差しが暑く、気温が上昇している。帽子を被り、タオルを首にかけ、軍手をはめて標柱の所から藪の中に入った。ところが、行く手を見上げると金網のフェンスが張り巡らされており、山上はおろか迂回することもできないようになっていた。ロープ位であれば跨いで進むことが出来るが、背丈以上もある金属製のフェンスでは無理である。残念だが登城は諦めざるを得ない。おそらく、猪や鹿への対策なのであろう。 |
↑城の腰城 登城口 ↑奥平周防守の墓 ↑萩城 ↑萩城 登城口 |
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6月1日(土)晴/森城、八幡砦(豊川市) 梅雨の季節となった。今日は午前中晴の予報である。これからしばらくは休日の晴れ間は訪城の貴重な時間となる。 今日は4月に訪れようとして果たせなかった森城へ出掛けた。場所は豊川市森の望理神社で、東三河環状線(県道31)沿いにある。 森城主として伝えられるのは佐竹刑部左衛門尉政義と言われている。常陸佐竹氏の一族ということである。どのような経緯で三河に来住したのかはわからないが、その時期は寛正元年(1460)であったと言われるから、すでに関東は戦乱に突入していた時代である。 城址の遺構はこの望理神社の社殿の裏側に土塁と堀がわずかに残っている。土塁と思われる遺構は長さ20mほどに見えたが竹藪の中にあるのではっきりと確認することはできなかった。 森城跡から2kmほど北に八幡砦跡がある。砦跡は発掘調査の結果、土塁や堀、井戸、掘立柱の穴等が検出されており、それまで不明確であった所在地が確定されたという経緯をもっている。規模は100m四方ほどのもので、土塁や堀の構築状態から急造の一時的なものであったと言われている。 この砦は永禄5年(1562)に今川方が徳川勢の襲来に備えて築いたものとされる。徳川勢との激しい攻防戦の末、守将板倉弾正父子は討死、落城してしまった。 |
↑森城 土塁 ↑八幡砦 発掘後埋め戻された |
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5月4日(土)曇一時雨/若桜鬼ヶ城、波賀城(鳥取県、兵庫県) 鳥取の城址探訪二日目である。計画では米子方面に向かう予定であるが、昨日行けなかった若桜鬼ヶ城にはどうしても訪ねたい。ということで再び鳥取市へ車を進め、そこから国道29号を南下することにした。国道29号は山間を縫うようにして中国道山崎ICに至っており、若桜街道とも呼ばれている。 鳥取市街から約1時間ほどで若桜町に入る。城は町の南側山上に築かれている。ありがたいことに城址近くまで林道が伸びているので車で山上に移動できる。時間に制約のある遠方からの訪城者にとっては嬉しい限りである。 若桜鬼ヶ城。若桜は「わかさ」と読む。築城は戦国期の国人矢部氏によるとされるが、その年次までは分らない。その矢部氏、尼子再興に燃える尼子勝久と山中鹿介らによって天正3年(1575)に捕らわれの身となり滅びた。この時、若桜鬼ヶ城には鹿介や勝久らが陣を置いて因幡攻略の拠点としていたことがある。結局は毛利勢に追われて因幡攻略は失敗におわったのであるが…。そんな歴史を秘めている城であるから鹿介びいきの私にとっては是非とも歩いておきたい城のひとつなのである。 城は石垣で固められている。当然、鹿介らの立った時の遺構ではない。羽柴秀吉の鳥取攻め以降に城主となった木下氏や山崎氏の手に成るものとされる。とはいえ、山頂の本丸から見る山々の景色は鹿介の見た景色と変わらないはずである。それにしても一国一城令で破却・破壊されて崩れかけた石垣がその当時のままの生々しい姿で残っているのだ。これを目にすると、歴史の現場に立っているという実感が湧いてくるのは私だけではないはずである。 ここからさらに29号を進むと県境を越えて兵庫県に入る。と同時に雨模様となってしまった。しばらく走ると波賀町に入る。ここに近年二層櫓が復元され、史跡公園となっている波賀城跡がある。予定外であるが車を林道に向けて城跡へと進めた。 波賀城は芳賀氏が築いたとされるが、平安時代のことなのでどの程度のものであったのかは計りかねるところだ。その後、鎌倉時代に中村氏が地頭として当地に住した。以後、戦国末期まで20代続いたそうで、波賀城はこの中村氏によって長年月の間に修築・拡張を繰り返してきたものとされる。 この城も山頂の城址近くまで車で行けるので有難い。雨が上がる気配もないので思い切って城跡へ向かって歩き始めることにした。豪雨というほどでもないので木々の下を歩けばさほどのこともない。無人の案内所で記帳を済ませ、整備された遊歩道を進む。5分も歩けば二階櫓の所まで行ける。カメラのレンズに雨が当たらぬようにしながら撮影だ。この城の見どころは二階櫓だけではない。石垣に特徴がある。レンガ状の横長の石で積まれているのだ。石垣の発達する天正期以前の古い様式ということである。 さて、これでGWの訪城旅は終わりである。私たちは29号を南下して中国道に乗り、高速道路をひた走りに走って帰路についたしだいである。 |
↑若桜鬼ヶ城 本丸天守台 ↑天守台からの眺め ↑破壊され、崩落が進む石垣 ↑波賀城 二階櫓 ↑波賀城 石垣 |
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5月3日(金)晴/篠山城、鳥取城、防己尾城(兵庫県、鳥取県) 私のGW訪城は飛山城と宇都宮城だけでは終わらない。昨日の夜(23時頃)に帰宅した私はすぐに風呂に入って寝た。そして今朝2時半に家を出発、鳥取を目標地にして高速に乗った。相棒はいつものトモ坊である。 連休に渋滞はつきもの。とはいえ、高速に乗ったとたんに渋滞である。通常なら1時間以内の区間が2時間かかってしまった。愛知県内で夜明けとなってしまった。この先、大坂方面でも2時間以上の渋滞が発生しているという。これでは鳥取着9時半の予定が大幅に遅れそうだ。2時間渋滞にはまる位ならその分遠回りしたほうがましだ。ということで、京都から京都縦貫道へ、そして国道372で舞鶴若狭道へ、さらに中国道へと車を向けることにした。 京都縦貫道を降りて国道を西へ向かうと篠山市に入る。すると「丹波篠山城」の案内標識が目に入った。「これは寄らずばなるまい」ということで急遽予定外の訪城とあいなった。 篠山城には平成12年(2000)に復元された大書院が建てられている。内堀に囲まれた本丸と二の丸の石垣も見事なものである。慶長14年(1609)に徳川家康の命により天下普請で築かれた城として知られ、縄張は築城名人藤堂高虎の手による。大坂の豊臣氏や西国諸大名を押えるために突貫工事で築かれたそうだ。急ぎ足で見て回ったつもりだが40分ほど時間を費やしてしまった。 舞鶴若狭道から中国道、そしていよいよ鳥取道を北上する。この鳥取道も渋滞しているではないか。この日の夜のニュースでは開通以来初めての渋滞だったそうだ。皆さん砂丘がお目当てなのだろう、私たちは市内を鳥取城へと車を走らせたのだが、交通量が少ないのである。市内には見るべきものがないのだろうか。先を急ぐ私たちにとっては好都合ではあるが。 鳥取城に着いたのは14時過ぎであった。予定より5時間遅れの到着となってしまった。嘆いてみても仕方がない。駐車場に車を置いて直ちに訪城開始だ。 まずは旧三ノ丸の鳥取西高西側の中ノ御門前の橋を渡って坂道を進む。そこから天球丸、二ノ丸、北御門口へと一巡する。いわゆる山麓の近世城郭部分を見て回るのだ。実は城山(久松山)の山頂にも石垣造りの曲輪(山上ノ丸)があるのだが、こちらの方は時間節約と熊出没の恐れありということでパスすることにした。しかしながら山麓部分だけでも十分見応えはある。山麓部分の最高所となる天球丸からの眺望はすばらしく、鳥取市街が一望できる。また天球丸の石垣には一風変わった石垣が目につく。半球状の石垣が通常の石垣にくっ付いているのである。巻石垣と呼ぶもので、補強目的で後から築かれたものだそうだ。 鳥取城は山名氏によって天文14年(1545)頃に築かれたとされる。鳥取城といえば羽柴秀吉による兵糧攻めで落城したことがよく知られている。籠城軍の城将は毛利の吉川経家であった。籠城用の兵糧は20日分しか無かったと言われるが、餓死者を出しながらも4ヶ月持ち堪えたという。 さて、時計を見ると15時を過ぎている。もう予定は滅茶苦茶である。とりあえず今晩の宿の方へ車を向けることにした。宿は倉吉市内である。その移動途中に防己尾城がある。今回の予定に入れておいた城のひとつである。 防己尾城、読みは「つづらお城」である。鳥取城の西約10kmのところにあり、湖山池西岸に突き出た半島に築かれている。国人の吉岡将監定勝が天正7年(1579)に築いたもので、当時は毛利方に属していた。天正9年(1581)の羽柴秀吉による鳥取城攻撃の際にこの防己尾城も秀吉軍の攻撃にさらされたが、吉岡将監の巧みな戦術で秀吉軍を悩ませたと言われる。しかし、兵糧攻めには抗する術もなく、鳥取城とともに開城するに至った。 17時、国道9号に出るとかなり混雑している。あとは車の流れにまかせて宿へ直行である。 |
↑篠山城 ↑篠山城 大書院 ↑鳥取城 ↑鳥取城 巻石垣 ↑防己尾城 本丸 ↑防己尾城 |
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5月1日(水)曇/飛山城、宇都宮城(栃木県) 例年、GWは泊りがけの遠距離訪城を実行している。今年のGWは家族の希望で一泊しての世界遺産の日光東照宮めぐりとなった。無論、栃木県まで出かけるのであるからそのコースに訪城を組み込むことは当然である。 東照宮は2日の午前中の予定にして、初日の今日は渋滞でどうなるか分らないから移動日だということで家族には説明してある。宇都宮へ到着した時間帯によっては「お城に寄るからね」と了解を得ている。 浜松発7時。案の定、首都高は渋滞が多発している。予定のコースを急遽変更して御殿場から東富士道路、中央道、圏央道、関越道、東京外環そして東北道へと車を進めた。かなりの遠回りをしてしまったが渋滞にはまり込むよりは快調に走っていたほうが気分的に楽である。 宇都宮着14時。ここから宿泊先までは1時間ほどである。3時間ほどの時間が訪城に取れることになった。さっそく飛山城へと車を向ける。飛山城は宇都宮市東部の鬼怒川東岸に築かれた城である。現在では堀、土塁が復元整備されており、国指定史跡にもなっている。 飛山城の創築は鎌倉時代の永仁年間(1293-98)とされ、芳賀高俊によって築かれたとされる。芳賀氏は宇都宮氏重臣としてその後の戦国期を生き抜き、天正18年(1590)の秀吉による宇都宮仕置では6万石が与えられた。しかし、飛山城はこの仕置きで廃城の対象となり、約300年の歴史に幕を閉じた。それから7年後、芳賀氏は宇都宮氏と共に改易となり、歴史の表舞台から去った。 飛山城に1時間ほど居た後、続いて宇都宮城址へと車を向けた。 宇都宮城の歴史は古く、源頼義・義家の前九年・後三年の役当時にまでさかのぼる。この時の戦功により宇都宮(二荒山神社)の別当職に任じられ、宇都宮氏の祖となる藤原宗円が居館を統治に築いたことに始まるとされる。この館が鎌倉・南北朝・室町と時代を経るにしたがって増改築が繰り返され、下野国の中心城郭としての体裁を整えるに至ったものと思われる。戦国期までは宇都宮氏が城主であったことは当然であるが秀吉によって慶長2年(1597)に突然改易となり、滅亡することになる。その後、宇都宮城は譜代大名の居城となって明治に至る。本多正純が城主のとき、釣天井事件によって改易された話は有名なことである。 宇都宮といえば餃子、ということで日光の宿泊先へ向かう前に二荒山神社近くの餃子専門店に入った。浜松も餃子は有名な所で、その消費量では宇都宮と一位を競っている。さて、味はどうか。「やっぱり浜松かな」と家族全員一致してしまった。宇都宮の皆さん、怒らないでくださいね。やはり食べ慣れたほうがおいしいということかな。 |
↑飛山城址駐車場 ↑飛山城の堀と土塁と城址碑 ↑宇都宮城 土塁に通路が… ↑宇都宮城の櫓・清明台 |
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4月20日(土)曇/久保田城(豊川市) ひと月以上も訪城活動をせずにいるとストレスが溜まっていけない。たとえ石碑だけの城跡でも行くだけで気分がすっきりする。 豊川市内の2城を目的に出かけた。森城と久保田城である。両城ともに豊川市の西部に位置しており、距離も300mほどの至近の位置にある。 まずは森城から訪ねようと望理神社へと向かった。資料には拝殿裏に土塁、堀の跡が残っているとある。ところが、神社周辺の狭い道にには軽トラックや乗用車が多く駐車しており、人々が境内に集まっていた。祭礼の準備なのだろうか、こういう場合は部外者の立ち入りは遠慮した方がよさそうである。訪城探索は日を改めて、ということで久保田城の方へ車を向けた。 久保田城跡は区画整理のためであろうか遺構は残されておらず、その規模も不明とされている。道路沿いに城址碑と説明板が建つのみである。説明板には城主は南北朝時代に滅亡したとあり、その遺児が帰農し、久保田一統として繁栄したとある。城址碑の側にはしめ縄が巻かれた丸い石が置いてある。資料にある「門の石」とはこれなのだろうか。 |
↑久保田城跡の碑 ↑城址碑周辺の様子 |
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3月2日(土)晴/赤木城(熊野市) 先日、NHKの番組を見ていると藤堂高虎の築いた初期の城として赤木城が紹介されていた。石垣を用いた天正期の平山城である。国史跡指定に伴って遺構が整備され、ほぼ築城当時の様子が体感できるようになっている。番組放送後、さっそく赤木城の訪城を計画した。自宅から赤木城まで6時間、休憩と食事込みで7時間はかかる。往復14時間に現地滞在1時間を加えて15時間の強行軍となる。日帰り不可能とはいえないが、渋滞や体調(睡魔)などを考えるとかなりハードな訪城となりそうだった。道中には三重の諸城が連なっているが、今回は脇目も振らず赤木城一城に絞っての行動とした。相棒はいつものトモ坊である。 出発は3時半の予定であったが、前日の仕事を終えて帰宅したのが24時であったため4時半とした。確実に睡魔との戦い必至と覚悟を決めての出発となった。早朝の東名、伊勢湾岸、東名阪、伊勢、紀勢の各高速道を快調に走り抜け大紀町の終点紀勢大内山ICで降りてさらに国道42号を南下する。小雪舞う寒い日となったが空は晴れている。山間にかかる雲から強風に吹かれた小雪がちらついているのだ。終点のICから赤木城跡まで約100km、国道と山間の道でこの距離を走破するには3時間はかかる。予測通り、城に到着したのは11時半であった。 近くには丸山の千枚田として有名な棚田の風景を見ることができる。城の周辺にも棚田を多く見ることができ、山間の風情を堪能することができる。城郭ファンならずとも誰が訪れても癒される空間が広がっている。 城跡に隣接して設けられた駐車場から城そのものの形が見える。余分な木々が取り除かれて石垣で構築された曲輪や虎口がそこから見えているのだ。石垣造りの山城というと兵庫県の竹田城を思い出すが、赤木城の風情はそれとは違う。極めてコンパクトな城であり、石垣も粗い野面積なのだ。 さて、登城開始だ。比高は20〜30m位であるから鼻歌気分で登られる。最初の虎口から入ると東郭である。ここからは主郭の石垣、西郭の石垣が見える。主郭の虎口は巧みな構造となっていて何度も折れ曲がらなければならない。主郭上からは城の全体が把握でき、合戦時における指揮命令は瞬時に発することが可能だ。城を守るための工夫は郭の配置や虎口に見られるだけではない。主郭側面には横矢掛けの工夫もなされている。天正十三年(1585)から同十七年(1589)の間に北山の代官であった藤堂高虎が一揆の鎮定と統治のために築いたとされる。いかにも築城巧者高虎の思慮深さが伝わってくる城跡といえる。 各郭を一通りじっくりと歩いて廻った。コンパクトな城であるから一時間とはかからない。しばらくたたずみ、周囲の風景を眺める。山間には棚田が広がっている。高虎の居た頃からあったのだろうか。振り返ると高虎の築いた石垣が物言わず静かに陽を浴びているだけだった。いつまで居ても飽きることはないが、帰らなければならない。 再び来た道をとって返す。帰路は睡魔と渋滞との戦いになりそうだ。四日市で渋滞の情報が入った。伊勢道のSAで1時間ほど休憩と仮眠を取り、帰宅の途についた。 |
↑駐車場から ↑虎口と主郭石垣 ↑主郭虎口 ↑丸山の千枚田 |
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2月24日(日)晴/行明城、麻生田屋敷(豊川市) 久しぶりの訪城となってしまったが、やはり遺構らしきものを目にすると寒風も気にならない。心身ともにリフレッシュされるから不思議た。今日は豊川市内の二ヵ所、行明城と麻生田屋敷である。 行明城は同市行明町にある城址である。ちょうど豊川と豊川放水路が分岐する三角地帯に位置している。現在では土塁と堀の一部が残存するのみとなっており、城の本体部分は放水路建設によって滅失してしまったものと見られている。 ところで、この城の築城者として伝えられるのが星野行明である。星野氏は熱田大宮司家の庶流として知られ、ここ星野庄を所領としていたとされる。初代は大宮司藤原範信で、妹に源義朝の室由良御前(頼朝の母)がいる。行明が範信の何代目かは判然としないが、羽衣伝説や「天より星くだりて或女に契りをこめ月日を歴て男子を出生す(行明寺内の説明板より)」といった逸話などからその素性に神秘的な雰囲気を漂わせている。戦国期には子孫の星野一閑が今川氏親に属し、その子日向守は武田信玄に仕えて長篠の戦いで討死を遂げたことが伝えられている。 麻生田屋敷は正確には麻生田村古屋敷と称される城館跡である。東名高速の豊川ICの東側近くの麻生田町にある。同町の玉林寺とその周辺が屋敷跡とされており、寺の西側民家に土塁状の遺構が残存している。 この屋敷の主は贄氏で、古くから牧野氏の家臣であったようだ。贄掃部氏信が牧野家臣のなかで勇名を馳せたことで知られており、調べると面白い話が出てきそうで興味深い。 |
↑行明城 ↑行明寺・星野日向守の墓 ↑麻生田屋敷/玉林寺 |
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1月4日(金)晴/和田城、新井城、三崎城、衣笠城、佐原城、浦賀城(神奈川県) 今年の年頭訪城は神奈川県(相模国)の三浦半島の諸城となった。 早朝3時発。一路、東名高速を東へ車を進める。薄明るくなる頃に厚木ICを降り、まずは鎌倉を目指した。鎌倉着は7時少し前であったが、どうにか写真を撮れる明るさにはなっていた。冷え込みはこの冬一番ともいえる-3℃であったが、天気は上々、青空が広がっていた。 鎌倉に寄ったのは初詣のためではない。これから向かう三浦市の和田城の主、和田一族は北条氏に対して反乱を起こし、鎌倉で激闘の末に敗亡した。いわゆる和田合戦であるが、その屍を葬ったとされる和田塚がいまに残されているからである。 和田塚から由比ヶ浜に出、国道134号を南下する。三浦半島の西岸に沿ってのドライブは朝の時間帯であることも手伝って交通量は少なく、快調である。穏やかな相模湾とその向こうに半分まで白くなった富士山が見事な姿を見せてくれていた。 和田城は三浦半島最南端の三浦市に入ってすぐのところにある。当地に移り和田を名乗って自立した三浦義明の嫡孫である義盛は頼朝挙兵に従って活躍、幕府では侍所別当を務め、幕府内においても有力な御家人として権勢を極めた。しかし、権力を掌握しようとする北条氏と対立、ついには鎌倉由比ヶ浜に一族もろとも滅ぼされてしまった。いわば、和田城は義盛一代の居城であったことになる。 城とはいえ、鎌倉期のことであるから土居を巡らした館造りの城であったはずだ。古い時代のこともあって、現在では遺構は残されていない。台地の一角に城址碑や旧里碑が建つのみである。 さらに7kmほど南下した岬の突端に新井城がある。新井城は戦国期に北条早雲に攻められて敗亡した三浦氏の最後の城である。 時の三浦氏を率いる三浦道寸義同はその居城である岡崎城(伊勢原市)を早雲勢に追われ、住吉城(逗子市)へ、そしてここ新井城に至り、三年の籠城の末に討って出て全滅した。 その三年に及ぶ籠城を支えた新井城も現在では水族館や研究施設の敷地となってかつての遺構は破壊されるか、または立入禁止区域となってその全貌をつかむことは難しくなっている。それでも、岬の外周をめぐる遊歩道を歩けば、土塁、堀切などの跡を目にすることができる。 この新井城の南、直線で約2km行くと後北条氏によって半島最南端に築かれた三崎城がある。ここから房総半島までは20kmほどしか離れていない。 その房総半島には安房の強豪里見氏が覇を唱えていた。三崎城はこの里見氏に対して後北条氏が三浦氏の城跡を修築して強固にした城である。実際に弘治二年(1516)には里見義弘が兵船80艘をもって攻めてきたと言われる。無論、城将梶原備前守らがこれを撃退して事無きを得た。 その三崎城も今では学校や市役所等の施設が建ち、周辺も宅地化されてその面影を伝えるものは土塁や堀切の跡がごく一部に見られるのみである。 ここで再び道を返して横須賀市衣笠町へと車を向ける。ここには三浦氏草創期の本拠地であった衣笠城があり、奈良時代の古刹大善寺の裏山が城址となっている。 歴史は三浦氏の始祖為通が源頼義に従軍した前九年の役の戦功によって当地の三浦郡を与えられたことに始まるから古い。その後、四代義明の頃には一族は半島の各地に勢力を張って繁栄していた。頼朝挙兵時、義明は頼朝に合力しようとしたが平家方に阻まれて籠城戦となってしまった。先の和田城の和田義盛もこの衣笠城に籠って奮戦している。義明は、結局は三浦党の面々を頼朝の落ち延びた安房へ脱出させた後に自刃して果てたと伝わる。義明の自刃は戦後に一族が幕府の要職を占めるに至ったことで報われることになった。 その三浦義明の末子義連が居住地としていた佐原城がこの衣笠城の東約2.5kmの所にある。 義連は土地の名を名乗って佐原十郎と称していた。衣笠城の戦い後、安房に脱した後に平家追討戦に参加、一の谷の戦いのひよどり越えの逆落としでは一番に駆け下ったことで勇名をとどろかせた。 そのつわものの城跡も今では宅地化が進み、丘の片隅に石碑がひっそりと建つばかりとなっている。遺構はおろかその片鱗すら見出すことはできない。城跡の南西800mほどに満願寺というお寺がある。平家追討の願いが叶ったことで義連が建立したという。この寺に義連の墓があり、今も大切に守られている。 佐原城の西4kmほどに浦賀城がある。本日最後の訪城先である。 浦賀は黒船来航の地としてよく知られているが、戦国期にはここに後北条氏によって水軍の城が築かれていたのである。浦賀港湾の北側の岬の突端に築かれている。説明板には里見氏の攻撃に備えて北条氏康が三崎城の出城として築いたといわれる、とある。房総半島までは約10kmであるから、三崎城よりも至近の位置にある。三崎城を小田原防衛のための城とし、この浦賀城は里見攻撃の発進基地であるとする見方もある。 時代は下って幕末、咸臨丸は太平洋横断の航海に当地から出帆した。船将の勝海舟はこの壮挙に先立ち、この城跡の叶神社奥の院の社全にて座禅断食の修業を行ったことが知られている。航海の平安と自身の精神的肉体的の荷重を克服するためであったと説明されている。 浦賀城への登城は山頂本丸の西麓にある叶神社からになる。社殿左側から山頂の奥の宮まで石段が設けられている。息を切らせて上がりきると、そこが本丸である。明確な遺構は見当たらないが、周囲は険しい崖となっていてかつての堅塁ぶりをうかがわせている。本丸の東側には腰曲輪と思われる平場も見られるが当時の遺構であるかは定かではない。 まだ陽は高いが年頭城めぐりはこれで終了である。帰る途中、横須賀の三笠記念館に立寄り、さらに近くの食堂の海軍カレーで遅い昼食を済ませてから帰路についた。 |
↑和田塚 ↑和田城 ↑新井城 ↑新井城 ↑三崎城 ↑三崎城 ↑衣笠城 ↑佐原城 ↑浦賀城 ↑浦賀城から房総半島を見る |