前九年の役(1051-62)の際、源頼義は同行した藤原宗円に宇都宮大明神(二荒山神社)で戦勝祈願を命じた。その後、頼義率いる朝廷軍は東北の豪族安倍氏の討伐に成功し、宗円は宇都宮大明神の社務職(神官の長/神社領の支配)に任じられた。この宗円が築いた館が宇都宮城の始まりとされている。史上にその名を残すようになったのは三代宇都宮朝綱からで、源頼朝の奥州征伐の合戦に於いてであった。
鎌倉時代、宇都宮氏は下野守や幕府評定衆を務めるなどして重きを成した。
九代宇都宮公綱の頃になると鎌倉幕府滅亡、建武の新政、南北朝争乱という激動の時代となる。公綱は一時的に足利尊氏に従いはするが、ほぼ一貫して南朝方の臣として各地を転戦した。一方、地元宇都宮では公綱の子氏綱が重臣芳賀氏(飛山城)の力によって宇都宮城主となり、北朝足利方の旗を挙げた。このため、下野国内にも南朝方の軍勢が常陸国から攻め込み、南方の臣春日顕国の軍勢によって鬼怒川東岸の飛山城が暦応四年(1341)に落城、宇都宮城の目前にまで迫ったのである。幸いにもこの危機的状況は幕軍高師冬の軍勢による常陸攻略が功を奏して春日らの南朝勢は下野から退却、宇都宮勢は飛山城を奪還した。
室町幕府が確立すると宇都宮氏綱は下野、上野、越後三ヵ国の守護となる。宇都宮氏の最盛期であったともいえよう。しかし、この状況は長くは続かず、関東は鎌倉公方の存在もあって戦乱闘争の地と化してゆく。そうしたなかで宇都宮氏は下野一国の守護の地位さえも維持できず、一族化した重臣芳賀氏との抗争を繰り返して弱体化の一途をたどったといえる。
戦国時代ともなると小田原城の後北条氏の力が下野にも及び、宇都宮城は一時北条氏康の支援を受けた壬生氏によって占拠され、宇都宮氏は城を失うに至ってしまう。弘治三年(1557)、常陸佐竹氏の援護のもとに二十一代当主広綱は宇都宮城を奪還することができたが、次代国綱の時代になると後北条氏との攻防は激化、城下町が焼き払われる事態も起きている。後北条氏に対抗するには平城の宇都宮城では心もとない。国綱は多気山城を整備改修して居城を移し、豊臣秀吉に通じることで後北条氏に対した。天正十三年(1585)頃のこととされる。
天正十八年(1590)、頼みの秀吉による小田原征伐に国綱も参陣、忍城攻めなどに加わったと言われる。小田原開城後、秀吉は全国統一の締めくくりのためにその駒を北へと進め、宇都宮城に入って北関東・東北地方の諸大名の配置を決定した。宇都宮仕置と呼ばれるものである。この仕置きで国綱は下野十八万石の所領を安堵された。
それから七年後の慶長二年(1597)、国綱は突如改易となり、所領を没収されてしまう。改易の真相は不明であるが、後継者問題、収益高偽装などの説がある。いずれにせよ、国綱は諸国流浪の後、失意の内に病没したと言われている。藤原宗円以来、五百年以上二十二代にわたって下野宇都宮に君臨した名族は突然に歴史の舞台から姿を消してしまった。ただ、子孫は水戸藩家臣として明治に至っている。
慶長三年(1598)、蒲生秀行が宇都宮城主となり、関ヶ原合戦(1600)後は奥平氏が十万石で入城した。
元和三年(1617)、徳川秀忠は日光社参の折に宇都宮城を宿泊場所とした。以後、幕末に至るまでの間、将軍家による日光社参は19回を数える。
元和五年(1619)、徳川家康の懐刀として知られる本多正純が十五万五千石で宇都宮に封ぜられた。正純は城と城下町の大改修を実施した。現在の街並みや道路網の骨格はこの時にできたと言われている。
元和八年(1622)、正純は改易された最上義俊の領地没収のために山形城にいた。そこへ幕府からの使者が訪れ、正純の改易が伝えられた。正純の突然の改易の真相は明確ではなく、それが様々な憶測を生み、「釣天井事件」などの物語が生まれる元となったようだ。
その後、宇都宮城には十万石前後の譜代大名が封ぜられ、安永三年(1774)からは戸田氏が幕末まで城主となった。
戊辰戦争で宇都宮藩は新政府への恭順を示していたため、江戸を離れた旧幕府軍の攻撃の的となって落城した。新政府軍と藩主、藩兵の撤収した宇都宮城は旧幕府軍の占拠する所となったが数日後には再び新政府軍によって奪還されている。この戦いで宇都宮城をはじめ城下のほとんどが焼かれてしまったと言われる。
明治初期には東京鎮台の駐屯地として宇都宮城は活用されていたが、明治二十三年(1890)以後は民間への払い下げが行われ、城としての役割は終わった。
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