萩 城
(はぎじょう)

豊川市萩町下ノ坪


▲ 萩城は戦国期に勢力を増した奥平氏によって築かれたものと思われる。。
(写真・鉄塔の左側の山が城跡。)

萩奥平氏の山城

 諸地誌等によれば萩城(萩村古城、萩古城、萩村城)の項には清家右馬允、次に内藤十郎市、次に奥平周防守の名が記されている。棟札等によって清家右馬允は嘉吉元年(1441)当時の人物であるようだ。古くから地頭代として土着していたものと思われるがその詳細は分らない。内藤氏に関しても同様に分らない。奥平周防守は萩奥平氏三代目勝次のことであり、永禄・元亀・天正と激動の戦国時代を生き抜いた武将である。

 萩城は戦国初期に当地に進出した奥平氏によって築かれたものと見るのが妥当と思われるが、どうであろうか。この奥平氏とは言うまでもなく設楽郡内(新城市作手)を根拠地として勢力を伸張させた三河奥平氏のことである。この奥平氏が萩を領するようになったのは三河奥平二代貞久の時である。彼は民の信望厚く、武略に秀でていたと言われ、作手三十六ヵ村と額田・宝飯郡の一部を領するまでに勢力を拡大した。貞久は応永二年(1395)生まれで文明七年(1475)に没した。萩を領有した時期は1400年代中頃であったと思われ、四男主馬允に与えて萩家を興させた。萩城はこの時に築かれたものではないだろうか。縄張的には奥平氏初期に築かれた川尻城に類似しているような気がする。

 萩にはもう一つ城跡がある。城の腰城である。こちらの方は萩の中央付近にあって統治者の城館として相応しい立地にある。川尻城を築いた奥平氏が作手盆地の中央に亀山城を築いて本城としたのに似ている。

 一般的には萩奥平氏は城の腰城を築いた後に萩城に移ったと言われているが反対ではないだろうか。

 萩奥平氏は初代主馬允、二代伝五郎そして三代周防守勝次と続いた。三代勝次の頃は城の腰城を居館としていたと思われるが、萩城も同時に機能していたと思われ、奥平氏の本城である亀山城との繋ぎの城であったと同時に後詰の機能を有していたと見られている。

 その後、勝次は本家奥平氏と行を共にして関東へ移ったため萩城は廃されたものと思われる。


▲ 城址入口に立つ標柱。訪城時、山腹には柵が巡らされており、登城できなかった。
 ▲ 城址遠景。鉄塔の左の山が城址である。
▲ 城址の南西約800mの所にある善住寺。

▲ 善住寺の墓地の一画にある「萩城主奥平周防守家之墓」。

----備考----
訪問年月日 2013年7月7日
主要参考資料 「東海古城研究会・城180号」
「長篠戦史・山家三方衆」他

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